こんな本を読みました。


2005-12-13 ガルシア・マルケス「族長の秋」

虚構を虚構と感じさせずに、いかにもありそうな因果の連鎖をからめながら、ひとつのまとまった物語を語る。小説というものにそういう形を期待する人は、決して読了できない本だろう。南米のとある小国の独裁者の姿を描いた作品だが、ストーリーらしいストーリーはない。いつの間にか入れ替わる語り手が、大統領にまつわるさまざまなエピソードを語ってゆくだけである。何が夢で何がうつつかまるで分からないし、第一そんな区別はほとんど何の意味もなさない。大統領は年齢150歳だか250歳だかで、軍隊からのたたき上げらしい。絶対的な権力を持つ冷血な独裁者であると同時に、自分のものではない他人の人生を生きているような虚ろな存在でもある。陰謀を企てた将軍はオーブンでこんがり焼かれ宴会の料理として供され、娼婦あがりの母親は宮殿の中でペンキを塗りたくった鳥を飼い、演説用のバルコニーにシーツを干す。妻が新鮮な野菜や果物を手に取るとたちどころにそれらは萎び、大統領は今夜もまたベッドを降り服を着たまま冷たい床にうつぶせになって眠る。こんな呼吸をするがごとく延々と続く独白のような冗舌が、時間も因果も生も死も、かまわず乗り越えながらいつ終わるともない孤独な世界を描いてゆく。世界は猥雑な喧噪に満ちているけれど、彼の回りは音もしない空虚に囲まれているようである。神話的と評されることの多い作品だが、これが神話だとしたら、ここからいったいどんな世界が生まれてくるというのだろう。

 

2005-12-12 吉野信「アフリカを行く」

アフリカにほれ込んだ写真家が30年にわたって撮りためた写真が、手軽な新書で楽しめる。もちろんゾウやライオンやサイなどのいかにもアフリカらしい動物の写真が多いのだが、中にはペンギンやらオットセイの写真もあって意外な感じがする。さすがアフリカである。ただ、よいのか悪いのか、この本では秘境としてのアフリカを演出しようという意図がないのか、たとえばペンギンのいる海岸にはしっかりロープが張ってあってそこから先は立ち入り禁止になっていることや、サファリといっても自然保護のために草原を自由に走り回ることがすでに認められないこと、かつては戦いに明け暮れ槍一本でライオンを倒した勇猛なマサイ族が、今や英語をしゃべり、観光客に民芸品を売ったり写真のモデルになったりしている現状などを、さらりと書いているのが面白い。考えてみれば、われわれが「未開の人々」の存在を知っているのは、そこにカメラを持った取材者が入り込んでいるおかげである。われわれが目にしている映像が「文明に接したことのない未開の人々」なんてことは、そもそもあり得ないのだ。動物だってそうだろう。クルマやカメラを見慣れているからこそ、さほど警戒もしないで撮影するに任せているのではないか。そう思うと、かつての神秘の大陸が、いまや巨大なテーマパークになってしまったような気さえしてくる。内戦の恐ろしさも飢餓の悲惨もほとんど姿を見せない平和で観光的な本だが、これはこれでアフリカの現実の一面を示してはいるのだろう。

 

2005-12-11 オマル・ハイヤーム「ルバイヤート」

高校の世界史でタイトルだけを丸暗記した遠い遠い作品が、こうした美しい本となって目の前にあるだけでうれしい。ちょいと艶めかしい挿絵と相まって、古いペルシャのエキゾチックで享楽的な世界が垣間見られる。とても通読するだけの根性はないが、ぱらぱらと拾い読みするだけで十分楽しい。
オマル・ハイヤームは11世紀後半から12世紀にかけて活躍し、「ペルシャのレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも称される万能の人である。ルバイヤートとは「四行詩」のことで、本書にはイギリスの詩人による英訳と、竹友藻風による文語訳が載せられている。「さめよかし。かなた東の丘越えて、/日は星のつどいを夜よりやらひたり。」で始まる邦訳は、むしろその分かりにくさが異国情緒と古典らしさを醸し出していてよいし、英訳も19世紀の擬古文だから気分が出る。ちなみにこの箇所の英訳は「Wake! For the Sun behind yon Eastern height / Has chased the Session of the Stars from Night; 」となっていて、大正時代の邦訳よりよほど分かりやすい。「さめよかし」は「覚めよ」にあんまり意味のない終助詞「かし」がついたもので、「さぞかし」の「かし」と同じと思えばよい、「やらひたり」の「やらひ」は「遣らふ」と書いて「鬼やらい」で分かるように「追い払う」の意、なんてことを考えながら読むと、古文のお勉強にも役立つかもしれない。

 

2005-12-10 永田諒一「宗教改革の真実」

まだまだ未熟な中学生のときに「分かりやすく」教えられたためなのか、宗教改革には「古い伝統と既得権にしがみつく悪いカトリック」VS「正義の実現をめざす民衆のためのプロテスタント」などというイメージを抱きがちである。が、もちろん史実はそれほど単純なものではない。たしかに宗教改革派は民衆の支持を得ることに成功したが、もともと識字率が数パーセントという時代のことだから、民衆にどちらの教義が正しいかを判断するだけの知識などあったわけがない。ルターの勝利は、その教義によるというよりも、当時普及し始めていた活版印刷術を最大限に利用し、カトリック側が思いもつかなかったような方法でプロパガンダを行ったためだった。ここでとられた方法は、教義の正しさを諄々と説くなどというものではなく、ローマ法王の姿を悪魔やら動物やらで描くなどのイメージ操作による中傷キャンペーンに近かったのだ。やがてキャンペーンは功を奏し、民衆は教会に飾られた聖画や聖像を破壊して回るようになるのだが、どうやらその聖画像はかつて彼らが厚い信仰心を持って自ら寄進したものだったらしい。真面目な信仰心を持った無知な人たちが、いかに翻弄されていたか窺えるエピソードではないか。のちに各領主によって都市ごとの宗派が決められることになるが、とくにアウクスブルクなど二宗派併存体制をとった都市では、カトリックと宗教改革派とのせめぎ合いは、いつ終わるともなく民衆の生活を揺さぶり続けることになる。見てきたような描き方に、思わずわくわくしてしまう本。

 

2005-12-09 セルバンテス「ドン・キホーテ」

ドン・キホーテときいてまず思い出すのは、風車を巨人と間違えて突進してしまうエピソードだから、あるいはこの作品を「おっちょこちょいなおっちゃんがひどい勘違いを繰り返すドタバタ喜劇」などと思っている人は結構多いのではないだろうか。たしかに大筋をいってしまえば、おかしな人が騎士になりきって旅をして、いろいろひどい目に遭う物語、ということなのだが、とてもそんな風にまとめるわけにはいかない。ドン・キホーテは風車と巨人との区別もつかない愚か者などではない。むしろ古今の文芸に通じた教養人といってもよい。ただ、読書が過ぎて、現実と虚構との区別が怪しくなってしまっただけであり、判断の基準が常人のそれとは少々異なっているだけのことである。無垢な魂が非情な現実に翻弄される悲喜劇、といってもよいだろう。
この作品が書かれたのは17世紀初めというから、日本でいえば関ヶ原の戦いが終わって江戸幕府が開かれたころである。牛島信明氏のすぐれた翻訳によるところも多いのだろうが、四百年も昔の小説が、何の解説も必要とせず面白く読めてしまうとは、まったく驚くべきことだ。ドストエフスキーはこれを「これまで天才によって創造されたあらゆる書物の中で最も偉大な、最も憂鬱な書物」と呼び、「現在までに人間の精神が発した、最高にして最後の言葉である」とまで称えたという。そこまでのすごさはまだ味わえないが、神々しく気恥ずかしいような無垢を何度でも読み返したいと思った。

 

2005-12-08 澁澤龍彦「東西不思議物語」

もともと新聞に連載されていただけあって、澁澤龍彦のものとしては非常に軽く読みやすい本。タイトルの通り、古今東西の不思議な物語を集めたエッセイ集である。人間というものは、なんてまとめてしまうような言い方は好きではないが、こういう妙ちくりんな話が次から次へと出てくるのを見ると、まったく人間というものは何ておかしなものを生み出す生き物だろう、と思わずにはいられない。部屋に入ると自分がそこにいたという自己像幻視とか、川を渡ろうとすると赤子を抱いてくれとせがむ産女(うぶめ)の話のようにものすごく怖いものから、自由自在に屁をひってムーラン・ルージュでやんやの喝采を浴びた男やら、夢で天女の接吻を受けてから口中から芳しい香が漂い続けたという番味孫右衛門の話など、ユーモアあふれるとぼけた奇談まで、何が本当で何が虚構か分からないほど、実にバラエティに富んでいる。中には衆人環視の中で行われたダニエル・ホームの空中浮遊や、五百キロ以上も離れた場所の火災を「見た」スウェーデンボリの遠方透視など、どうしても合理的には説明しきれない現象も含まれているが、それらをことさらに分け隔てることなく、ただ「不思議な話」として真偽などにはまったく関心を持たずに書いているのが格好いい。こういう本は、高みに立って昔の人の蒙昧さをおかしがるのではなく、いっしょになって目をまーるくして読まなくちゃいけない。

 

2005-12-07 斉藤貴男「国家に隷従せず」

著者はとにかく権力による管理とか、強者による横暴とか、そういうことが大嫌いな人らしい。あらゆる暴力的なものを憎む、という姿勢がどこを読んでも伝わってくる。正義を語る人ならば暴力が嫌いなのは当然、というものではない。それどころか、正義というものは、たいていの場合は反対するものを徹底的に排斥しようとする暴力的な性質を備えているものだ。そして正義の網を張りめぐらせようとするとき、社会は否応なく監視社会となってゆく。現にセキュリティという大義名分のもとに、駅でもコンビニでも銀行でもクルマを運転しているときにでも、もうどこへ行っても監視カメラに見張られているようになってしまったではないか。本書が怒りをぶつけているのは、国民総背番号制、盗聴法、サラリーマン税制などの権力による監視や管理、拘置所内での非人間的な扱い、学校での偏向思想教育、喫煙者差別など多岐にわたるが、さすがに一冊読み終わる頃には、そうだそうだと同調する気持ちも萎えて、これほどまで不信に満ちた社会に生きているのかと暗澹たる気持ちになってくる。こうやって声をあげることでどれほど世の中が変わるかは知らないが、いずれにしても踏みつけにされるのだけはごめんだ、という気持ちだけはよく分かる。

 

2005-12-06 小杉俊哉「ラッキーをつかみ取る技術」

ツキを呼び込むための方法を述べた本はたくさんあるが、率直に言って品のない本が多い。成功に向かって邁進する!というスタイルにともないがちな一種の無神経さは、いつまでたっても好きになれない。その点この本は、光文社新書の落ち着いた装丁のためなのか、筆者の抑えた語り口のせいなのか、そういう俗物臭さがさほど感じられない良書だと思う。数ページごとに囲みで要点がまとめてあるのも分かりやすくてよい。内容的には新味はないが、これは当然だろう。成功するための法則というものがあるとすれば、万有引力の法則や慣性の法則と同じく、誰が語っても同じ内容にならなければおかしいのだ。いわく楽観的に考える、いつも笑顔でいる、感謝の気持ちを持つ、人の役に立つことを考える、ラッキーな人とつき合う、新しいことにチャレンジする、自分の価値観を見極める、明確な成功イメージを持つ、できるようになるのを待たずまずやってみる…という具合。おそらくこの本の良さは、提言の内容というよりも、金持ちになる金持ちになる金持ちになる!というようなギラギラした欲望の表出を避け、控えめに「ラッキーをつかむ」という表現を選んだところにあるのではないか。大成功しようとか、大金持ちになろう、と言われると、それほどの覚悟のない身としては、どうしても尻込みしてしまうものなのだ。ともあれ、たまにこういう本を読むと、元気が出る。よし、がんばろう。

 

2005-12-05 宮本輝「泥の河」

昭和30年代がちょっとしたブームなようだ。子どもの頃を懐かしく思い出すという単なる懐古趣味だけでなく、今日よりよくなる明日を信じられた時代を振り返ることで、ほの暖かい希望を抱く気分を取り戻そうとしているのかもしれない。さて、「泥の河」は昭和30年の大阪を舞台に、社会の底辺に生きる人たちを描いた作品のひとつである。舞台は戦争がおわってわずか10年、いまだに馬が荷車を引く姿が見られ、しきりにポンポン船が川を行き来する大阪だ。橋のたもとの食堂に住むひとりの少年が、川に浮かぶ小さな舟で生活をする貧しい姉弟と知り合う。姉弟の父はすでになく、母親が舟の上で客を取ることでようやくその日を生きている。やがて少年は毎日のように舟の家に通うようになるが…。よくある下町の人情物語とは違って、ここでは輝かしい未来を夢見ることもなければ、貧しいながらも助け合う隣人愛があふれているわけでもない。そのくせことさらに悲惨を嘆くわけでもない。ただ子どもは子どもとして、貧しい者は貧しい者として、哀しい人は哀しい人として、それぞれの生を生きるだけである。哀しさが滲む物語だけれども、なにも貧しさが哀しいのではない。孤独であることを知りながらなおつながり合おうとする人の姿が哀しいのだ。その哀しさが、何ともなつかしくてたまらない。

 

2005-12-04 小和田哲男「呪術と占星の戦国史」

今でこそ日本人は、世界に名だたる不信心者として自他ともに認めるようなありさまだが、戦国時代はそうではなかった。武将たちは、自分の力の及ぶぎりぎりのところで命のやり取りをしていたわけだが、面白いことに、だからといって彼らは自分の力だけを頼りに生きようとは思っていなかった。力がすべての世界にありながら、実に真剣に、神仏に頼みすがっていたのだ。自分の力だけでなく、ときとして運や不運という不思議な力が生死を分けることを、切実な実感として知っていたのだろう。天の星の運行を見て、いくさの吉凶を占った。北を向いて馬に乗らないなど、さまざまな縁起を担いだ。敵を退散させるための呪法なども行われた。もちろん神仏の加護やら出陣前の瑞兆やらをうまく利用して、必勝の士気を高めることも忘れなかった。こういうことは、何も科学的思考が未熟な時代に特有な現象ではない。事実、先の大戦に至るまで、われわれは装備兵力では劣っていても、大和魂をもって必勝を念じればいつか神州に神風が吹き、たちどころに敵は退散する、などという神話を信じていたのではなかったか。もっとも人智を超えた大きな力に畏怖すること自体は、愚かさではなく智恵と呼ぶべきものだけれど。

 

2005-12-03 島内景二「文豪の古典力」

かつて小林秀雄は講演の中で、漱石鴎外は源氏物語を読んでいないし何の関心も示していない、というようなことをしゃべっていたが、本書によれば、実はそのふたりとも源氏の非常に強い影響下にあったようである。漱石の学生時代の作文には、そのまま桐壺の巻を引き写したようなものがあるし、鴎外だって、たとえば「ヰタ・セクスアリス」は源氏物語の帚木の巻にある「雨夜の品定め」からモチーフを得ているらしいのだ。もっとも文豪と呼ばれる人たちが、古典の中の古典である源氏をまったく読んでいないとしたらむしろその方が不思議なくらいで、この指摘自体にはそれほど驚くことではない。与謝野晶子の現代語訳には数千ヶ所にも及ぶ誤訳がある、という話も雑学としては面白いがそれだけのことだ。筆者の言わんとするところはむしろ、千年にもわたって読みつがれ、日本人の内奥をゆたかに耕し続けてきた源氏が、皮肉にも与謝野晶子の訳業を境にして、口語訳で読むものになってしまったことへの嘆きである。千年の昔の文学をどうして現代語に訳さなければならないのか。口語訳などにしてしまったらまったく雰囲気が伝わらないではないか、というのが筆者の主張である。しかしさすがにそれはハードルが高すぎる。やはり著者が別の箇所で示唆していたように、われわれが古語の香を味わいながら理解できる形としては、明治時代に試みられたという「文語訳」あたりがいちばんよいのではないだろうか。

 

2005-12-02 土屋恵一郎「正義論/自由論」

ロールズの正義論を核にして、現代社会の正義やら平等やら他者に対する寛容やらのあるべき姿を考える。ロールズの主張というのは「みんなが自分自身のことをなーんにも知らないでいたとすると、誰もが平等な社会を望むはずだ」というものである。金持ちが金持ちに有利な社会を望むのは、自分が金持ちだと知っているからだし、貧乏人が弱者にやさしい社会を求めるのは自分が貧乏だと知っているからだ。それでは、もし自分が何者か分かっていないとしたら、どんな社会を望むだろうと考えてみると、そりゃ平等な社会ってことになるだろう、ということらしい。つまり、自由と平等というのは市民社会のイデオロギーとして作られたものではなくて、人々が合理的な選択をしさえすれば自動的にそうなる状態だという主張である。著者はこういう考えを足がかりにして、ロールズが措定した“自分のことを何も知らない状態”という思考実験のための前提をまともに見据え、ひとりひとりが無縁化するようなあり方を提唱する。無縁化とは、かつてパリのカフェに集まり議論を交わした人たちのように、ある特定の社会集団に飲み込まれずに、主体的に関わり合う関係をイメージしているようである。自由で互いに寛容な社会はそんな中から生まれるという感じだろうか。先日取り上げた呉智英などは、こうした考えを一蹴(というか一笑)するが、どうせ現実の社会は封建主義にもならず無縁化するわけでもないんだから、どっちの肩を持ってもいいんじゃないの、なーんてことではダメでしょうか。

 

2005-12-01 小坂修平「考える技法」

筆者は20年くらい前に「イラスト西洋哲学史」やら「わかりたいあなたのための現代思想・入門」などという一見やさしそうに見えてじつは相当難しい哲学の入門書を書いた人である。彼のように難解な本が好きな人は、どういうわけかやさしい文章が書けないものだが、意外にもこれは分かりやすかった。小論文の本はたくさん出版されているが、「ネタと形式を覚えさせ、それを組み合わせることで何とか格好をつけさせる」というスタイルと、いかにも文学好きな先生が、入試の実態とは無関係なエッセイの書き方を教えるようなものが主流で、あまり役には立たないものが多い。中には猪瀬直樹氏のもののように、単なるエッセイ集を「小論文の本」とうたったものさえある。そうした中で、本書はとても真面目に作ってあって、新書というスタイルでありながら、きちんとワークブックとして使える水準にあると思う。実際の大学入試問題を例題として取り上げながら、模範解答を天下り的に示すのではなく、どういうところに目をつけて、どういうステップで考えるとよいか、というように論考の過程を示そうとしているところが好ましい。昔々の小坂氏の著作は、口調だけは易しげだけれど実はよく分からないものが多かったが、ふーん、こんな分かりやすい文章を書ける人だったんだ、と見直した。