| 2005-11-30 関野吉晴「グレートジャーニー」 |
グレートジャーニーとは、アフリカで誕生した人類が、アジアを経て、極北の地を旅して、ついにはるか南米大陸の端にまで達した大移動をいう。本書を著した関野吉晴氏は、その旅を逆回りに、すなわち南米大陸の南端からアフリカのタンザニアまで、徒歩・自転車・カヌー・そりなどの人力だけで成し遂げた人である。この本は、彼が出会った美しい人と自然を、そこで暮らした人ならではの言葉と写真で写し取った貴重な記録。太古の時代からほとんど変わらない暮らしをしている人々の、親しげな美しい表情の写真が素晴らしい。大きくなったら空を悠々と飛ぶコンドルになりたい、と語る少年。わずか十歳にして、男としての振る舞いを身につけている少年。次に来るときに持ってきてほしい物は、と聞かれて、犬と答える男もいた。便利な道具を得るよりも、ペットを友におだやかな暮らしをすることを望んでいるのだ。うーん。未開の人たちは純朴で無垢で美しい、などという神話を無邪気に信じるつもりはないが、そこにはたしかにわれわれがとうの昔に失ってしまった心の豊かさのようなものが残されているようだ。雄大な自然や珍しい動物を撮る写真家は多いし、未開の部族の知られざる習俗を撮る人もいるが、豊かな感情を持つひとりの人間として彼らを撮った写真家はそれほど多くはない。ここに写っている人たちは、大人も子どもも、ちゃんとそれぞれの人生を背負っている顔をしている。これはすごい。
近世の江戸における悪所をめぐる論考集。悪所というのは文字通り、遊里や芝居小屋のような、よい子は近づかない悪い場所のことである。都市の中心部から外れ、日常と非日常、この世とあの世、現実と非現実という世界の境(=辺界)にある悪所は、その両義性ゆえに、明るい普通の世界からは生まれないような一種ゆたかな文化を生み出してきた。悪所に生きる遊女や芸能者は、ともに士農工商の外にある存在だったから、蔑まれると同時に畏敬される者として、独特な立場に置かれていた。悪所にあっては、日常的な暮らしの中では禁忌とされることが芸能美まで昇華され、あるいは祭りの芸事から呪術に近い演目が生まれたりもして、ますますこの世ならぬものの魅力を高めていくのだった。そうして育った浄瑠璃や歌舞伎は、今でこそ立派な伝統芸術と見なされているが、当時は悪所の芸能そのものだったのであり、民衆はその中に、お行儀のよい伝統美などではなく、日常の枠からはみ出すようないのちのほとばしりを見ていたに違いない。江戸の文化が違った角度からの光を浴びて、妖しく浮かび上がってくるようだ。
| 2005-11-28 菅原健介「羞恥心はどこへ消えた?」 |
電車の中で化粧をしたり、パンを食べたりする女性を見ても、今さら驚く人はいない。コンビニの前に座り込む兄ちゃんたちも、まったく珍しいものではなくなってしまった。かつて日本人の行動規範は恥の意識にあると言われたが、近ごろの若い子たちからは、もうそんな意識は消えてしまったのだろうか…。こんな話から始まっているから、若いモンをこき下ろす論調を期待するかもしれないが、この本の水準はワイドショーの放言とはまったく違う。若者をつるし上げて溜飲を下げようという人は肩すかしを食うはずだ。そりゃあ周りに人がいないかのように(まさに“傍若無人”に)振る舞う若者たちを批判するのはたやすいが、電車の化粧は平気でもデパ地下で試食なんて恥ずかしくてできない、彼氏の前で化粧なんてとんでもない、という高校生のコメントに耳を傾ければ、彼らの恥意識は低下したのではなく、変化しただけということが分かるだろう。本書は、こうして若者文化論に留まることなく、恥ずかしいという感情はどういうときに起き、どういう機能を果たしているか、という社会心理学的な考察を重ねていく。こうした恥の意識の変化の原因を、「セケン」がただの「タニン」になってしまい、代わって「自分本位の基準」が台頭してきたから、とするのは阿部謹也あたりが扱ってきた領域と重なるが、面白い本は、奇抜な結論などなくても十分に面白いものである。日頃感じていることを的確に言ってもらえて、すっきりした。
| 2005-11-27 きだみのる「気違い部落周遊紀行」 |
昭和32年発行、定価70円の文庫本を千円で購入。高いか安いか知らないが、「気違い」「部落」なんていう書名の本がそのまま再刊される見込みはまずないから、まあ致し方ない。本書は戦後まもなく書かれた本だが、ユーモア小説と言おうか文明批評と言おうか、架空の村に託して前近代的な日本人の行動やら物の考え方を皮肉たっぷりに風刺していて非常に面白い。ガリバー旅行記にロシュフーコーの箴言を合わせたような趣である。もちろん皮肉といっても朝日新聞の“素粒子”あたりに見られるような下品で小狡い嫌味な冷笑とは違い、笑われる者にちゃんと自分自身が含まれているような一種の爽やかさがあって、素直に笑ってしまう。作者は村の人たちから「先生」と呼ばれているから「ヨソから来た偉い人」として扱われてはいるのだが、いつだって彼の気持ちは理知的なこちらの側にはなく、大まじめにとぼけた考えをふりかざすあちら側に立っているように見える。ギリシャローマの古典に言及したり、ラテン語やフランス語をちりばめたりしていながら、まったく晦渋なところがない軽妙な文体もいい。どこまでも平易な文章はとりたてて言うほどの名文ではないかもしれないが、読んでいるうちについつい口調が似てしまうくらいの親しさを感じる。風刺というのはいちばん古びてしまいやすい題材なのに、今読んでもほとんど古さを感じさせないのは驚きだ。差別的な思想だけでなく、差別を連想させる言葉は何でもかんでも封印する、という臆病な自己規制が、こうした晴れ晴れとした楽しい作品を抹殺してしまったとしたら、まったく残念なことだと思う。
日本人にとってキリスト教というのはあまり馴染みがない宗教である。中でも熱烈な信仰でもって「生きながらの殉教=徹底的な禁欲」を求めて共同で生活を営む修道院なんてものになると、せいぜい「薔薇の名前」やもしかすると「サウンド・オブ・ミュージック」などの映画を通して知るくらいのものだろう。あるいは厳格な規律の中で修行に打ち込むというイメージから、永平寺あたりの僧と重ねて理解しているかもしれない。時代によって修道院はさまざまな変遷をとげてきたが、使徒的な生活を理想とし、神との交わりのために世俗の欲を絶つという基本的なスタンスは変わっていない。しかし一方では、十世紀に設立されたクリュニー修道院のように、ローマ教皇以外のいかなる権威にも属さず、全土に千五百もの従属修道院を組織したという例もあり、こうなると権力やら富やらとまったく無縁に生きることなど望むべくもなかったろう。貴族がこぞって救いの取りなしを願って莫大な富を寄進するに至っては、すでに修道院と世俗の権力との間には、その守備範囲以外、何ら質的な違いはなかったはずだ。わが古今集に「世を捨てて山に入る人山にてもなほ憂きときはいづち行くらむ」とあるが、この世の中に喧噪の及ばない清らかな場所を求めるのは、地上に天国を求めるくらい詮ないことなのかもしれない。
ブックオフで百円で買った本。まったく期待していなかったが面白かった。文章術の本は非常に多いが、文章以前のアイデアの引き出し方、つなぎ止め方、まとめ方、表現の仕方にわたって、そのプロセスを示した本はそれほど多くない。本書は筆者の書くプロセスをそのまま追体験するような貴重な事例が多く、非常に参考になる。文学者の書く文章術はどうしても心中に去来する情緒をいかに伝えるかというアプローチになりがちだが、本書のような理科系の学者の著作には、そうした感傷が入り込んでいない点がよい。ふつうの人が書く文章は文学的である必要はない。なぜならふつうの人の文章は、味わうためというよりもまず、考える踏み石としての言葉であり、考える理路を整えるための文章であるべきだからだ。観光用の遊歩道を作るのなら、いかに美観を整えるかとかいかに独自の魅力を演出するかということに心を砕く必要もあるだろうが、実用のための道路であれば、広々とした見通しのよいまっすぐな道がよいに決まっている。本書はそんな風に割り切った上で、まっすぐな道を通すような文章を書くための、きわめて具体的なノウハウを示してくれている。難を言えば、単なる文章術ではなく「知的生産の技術」の域にまで達している内容なのだから、もう少しキャッチーなタイトルをつけてほしかった。
| 2005-11-24 天満美智子「英文読解のストラテジー」 |
十年ほど前に読んでいたが、最近読んだ本の中で再三言及されていたために再読する気になった。認知心理学者が一目置く学習本なんてめったにあるものではないし。
さて改めて読むと、さすがに名著と呼ばれるだけはある。本書の後を追うようにパラグラフ・リーディング(段落ごとの要旨を意識的にまとめながら読む読み方)を掲げる参考書が何冊も出たが、そういう本とはそもそも土台からして違うことがよく分かった。ゆっくり読んでも分からない生徒に斜め読みを勧めるようなトンデモ参考書と一緒にしてはいけない。何しろ本書の土台をなしているのは、英語をどう読むか、ということではなく、「分かるというのはどういうことか」という根元にまで遡った問題意識なのだ。このため本書にいう理解のための戦略(ストラテジー)は、英文読解という枠を越えて、国語や社会科や理科はもちろん、およそ言葉で理解する場面ではすべて使えると言ってよい次元に達していると思う。難を言えば今日の大学受験生にとっては、使われている英文も、読解のための理論も少々難しすぎる。残念ながら読めない人が本書でもって読めるようにはならないだろう。こんな高度な読みができる生徒が、そもそも大学受験レベルの英文で悩むことなどありえないからだ。高校生向けにはこれよりも、同じ著者による岩波ジュニア新書の「新しい英文読解法」の方がいい。理解できたら世界が変わる。
呉智英の本を読むと、自分がちょっと賢くなったような気分になる。大きな思想を語るわけではないが、誰も気づいていないようなことに気づかせてくれるという点でも、もやもやとしたわだかまりを平明な文章で解きほぐしてくれるという点でも、ついでに言えば冗談の面白さからしても、彼ほど読んですっきりする評論家はいない。本書でも、宗教の本質は狂信であり政治の本質は統治である、という直接的な指摘から始め、民主主義だの人権思想だのといったものが人類普遍の真理などではなく、イデオロギーの一種に過ぎない、ということをさまざまな例を引きながら明らかにしていく。デビュー以来、特定の宗教や既存のイデオロギーに依らずにいながら一貫して主張がぶれない強靱さがすばらしい。こうした彼の批評を支えているのは、何より読みの正確さなのだと思う。その昔、栗本慎一郎は大学の講義で「私は書くことよりも読む方に自信がある」と語っていたが、呉智英もそういうタイプなのだろう。本書を一読すれば、人権を守ることは正しい、差別はなくさなければならない、などという命題の正しさを露も疑わず、何か事件が起きるたびにお決まりのコメントを述べて恥じないマスコミや、近ごろますます何を言っているか分からなくなってきた国際的大作家などがほんとうに××に見えてくるに違いない。
一時かまびすしかった学力低下論争でも、勉強の仕方そのものを問題とした発言はほとんどなかったように思う。本書では、今日蔓延する勉強の仕方を「ごまかし勉強」と呼んで厳しく指弾する。これまであまり意識したことはなかったが、なるほど今の子どもたちは、われわれ親の世代とはまったく勉強に対する姿勢が変わってきてしまっている。思えば昔は、教科書と授業のノートを使いながら、自分でここが大事だろうと見当をつけてあれこれ工夫しながら勉強したものだが、今ではそんな手間をかける必要がない。自分で要点をまとめたり、暗記カードを作ったりしなくても、学校や塾が用意したプリントや問題集をやっていくだけで、そこそこの試験準備ができてしまうようになっているからだ。一見便利なこのシステムは、試験準備を容易にするとともに、子どもたちから主体的に工夫をする機会をすっかり奪ってしまった。その結果、思考過程を軽んじて結果だけを求めたり、理解をしないで暗記だけをしようとしたり、単純な反復が正しい勉強法だと思いこんだりしてしまう子が大量に発生する事態に至っているのだ。学力低下を防ぐには百マス計算が一番!などという寒々しい主張がいまだにもてはやされているが、勉強というものの中心がそんな単純な処理作業であってよいはずはない。ごまかし勉強によってよい点を取り、ごまかしをよい勉強と錯覚してしまうことの恐ろしさを、今こそきちんと知るべきだ。
われわれがふだん食べている肉は、豚や牛を殺したものである。そんなことは分かり切ったことだが、ではそれをどの程度リアルに理解しているかというと、はなはだ心許ないものだ。この本を読んで、家畜がどのように屠殺されているかという過程を知ってみると、いのちをいただくありがたさのようなものが少し分かったような気がする。いのちを奪うということをリアルに想像しないから戦争が起こるのだ、というような主張はやや短絡的かとも思うが、食用にする動物だけでなく、医療技術や新薬開発などのために使われるおびただしい実験動物のいのちのありがたさを知れば、殺戮ゲームに麻痺した子どもたちの感覚も、多少は正常に戻るのではないかと思う。
さて屠殺という仕事は、穢れた仕事として長く差別の対象とされてきたが、今日でもそれは消えてはいない。実際屠場で働く人には、依然として被差別部落の出身者が多いらしい。そうした事情もあってか、屠場の様子がテレビで放映されることはない。覆い隠すことによって、動物の命を奪う生々しさもそこで働く人たちに対する差別も、なかったことにしてしまうというわけだ。きれいなものだけを見せて、それを世界の現実だと思わせるのがマスコミの良識というものらしいが、はたしてそれでいいものなのか。
| 2005-11-20 市川伸一「勉強法が変わる本」 |
認知心理学から見た効率のよい学習法を説く。誰も唱えたことのない奇策が述べられているわけではないから、読みようによってはごく当たり前のことしか書いていないように見えるかもしれないが、非常に実践的で有益なアドバイスに満ちた本だ。たとえば「事実や手続きを丸暗記するのではなく、理解して覚えること」、そのためには「理解したいという気持ちを持つこと」そして「勉強量よりも何が身についたかを気にかけること」なんていうことはたしかに「当たり前のこと」だが、その当たり前のことを、日頃から実践している子どもの何と少ないことだろう。もちろん本書が示すのは、こうした記憶に関わることだけでなく、文章理解のための方法にも及ぶ。そこで示される「文章を理解するということは、筋の通った解釈を作り上げるという一種の問題解決である。書かれた文章は、あくまでも材料であって、解釈は読み手の読み手の知識と推論能力に大きく依存して作られている」という指摘は、分かるつもりで自問自答しながら読まない限り分かるわけはない、という読解の基本をきちんと言い当てている。感心しつつ読み終えたらアンダーラインだらけになった。一読を勧めたい。
| 2005-11-19 清邦彦「女子中学生の小さな大発見」 |
傑作である。中学一年生の女の子たちが、身近な疑問をあれこれ実験して確かめてみた記録なのだが、実にすばらしい。実験や観察の中には、凡百の教師であれば目をむいて怒り出すような非科学的かつ非常識なものもあれば、しっかり筋道の立った立派なものもあって、読んでいて飽きることがない。降りていくエレベーターの中でしゃがんで立ち上がろうとすると体が重く感じる、息を吐きながらプールに入ると底まで沈んでしまう、なんていう体を張った実験は楽しいし、カタツムリの殻を取ったらナメクジになるかどうか試す、なんていう全然いい子じゃないレポートも含まれているのもとてもいい。これを指導している先生は、正しさよりもノリを重視しているようだが、この姿勢はまったく正しいというほかない。だって、間違った実験結果を信じてしまったとしても、それが本当に大切な知識であれば、生きているうちにどこかで正しい理解に達するに決まっているし、何より自分で問題を設定し、仮説を立て、検証するという一連のプロセスを当たり前のこととして身につけられることの素晴らしさは計り知れないからだ。文章にも巧まざるユーモアがにじみ、何ともとぼけた味がある。みんなで読もう。
| 2005-11-18 山際素男「不可触民と現代インド」
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二十数年前に「不可触民」を書いた著者が現代のインドを再訪して描くカーストの現実。本書では不可触民とはいうものの、高い教育を身につけたエリート層に近い人々のインタビューが中心なので、虫けらのように虐げられた悲惨な人々の話、なんてものを期待すると裏切られるかもしれない。不可触民はどこへ行っても露骨な差別に遭い、ことに田舎の農村ではいまだに虐待の末に殺されるという事件が頻発しているというが、しかし本書を読む限り、インドはすでに彼らが人間扱いされないほどの段階は脱しつつあり、真の平等を求める階級闘争の段階に入っているような印象を受ける。
われわれは差別の撤廃のために闘った偉人といえば、不可触民を「ハリジャン=神の子」と呼んだガンジーをまず思い浮かべるが、ガンジーは社会秩序を保つためにカーストは維持すべきだと考えていたであり、ちーとも彼らの味方などではなかったようである。著者は、カーストとそれを支えるヒンズー教を憎み闘ったのはアンベードカルだとして、彼に対する尊敬と思慕を隠そうとしない。そのシンパシーがあまりに濃厚なため、本書は中立的なレポートとはちょいと呼びにくい。立場を異にする人の著作も読んでみたいところである。
| 2005-11-17 竹内一郎「人は見た目が9割」 |
人の魅力はやっぱりルックス、なんてことを書いた本ではない。ノンバーバルコミュニケーション(言葉以外の方法で何かを伝えること・何かが伝わること)がテーマである。著者は比較社会文化学で博士号を持ちながら、舞台の演出やら漫画の原作を手がけている業界系マルチ人間。その幅広い活動に見合ってというべきか、本書の構成はほとんどゴッタ煮だ。漫画の表現手法などあまり興味を持てない話題や、ときおり見られる床屋政談レベルの講釈には辟易するが、相手に与える印象のほとんどは、話の内容=言葉でなく、意識もしていないような目の動き、手の置き方、声の調子、姿勢などによって決まってしまうという指摘は重要である。昨今の日本語ブームもあってか、人というものをまるでいつも言葉で考え、言葉で伝え合って生きているもののようにとらえる向きもあるようだが、人や社会というものは、決してそういうものではない。いくら言葉を尽くしても、本書にあるように「あなたの言うことの意味は分かるけど、あなたに言われたくない」と思われたらそれまでなのだ。政策よりも見た目の印象で勝負が決まる政治にはもうウンザリなのだが、こういう本を読むと、なるほどそれも仕方がないのかな、と思えてしまう。本書には、「本は書名が9割」という評を捧げよう。
なんともすごいタイトルだ。一億総中流といわれた時代は終わりを告げ、これからはいっそうの階層化が進むというおなじみの視点から書かれた本。ただ、勝ち組/負け組のような嫌味な分け方ではなく、ライフスタイルの多様化という姿勢を崩さないのが好もしい。内容は、上中下のそれぞれの階層のライフスタイルの違いを、さまざまなアンケートやインタビューに基づいて描いていて、読み物というより「何とかデータブック」のような感じである。アンケートを分析するときでも、上がよいとか下がダメとか、そういう価値の押しつけは慎重に避けられているようだ。その割に、これこれの階層の人はこういう趣味を持ち、こういうことに幸せを感じ、こういうブランドを好む、という類型をどんどん決めつけて行く。ほとんど血液型占いのような強引さだが、これはこれでなかなか楽しい。こういう本は、何年か前なら「とにかく上昇志向を持たなくてはダメだ、下流に甘んじるなんて人生の敗者だ」というトーンで書かれていたかもしれないが、今は年収三百万円でもこころ豊かに過ごせればいい、という人生観をもよしとする時代である。下流社会という衝撃的な社会の到来を、さほど衝撃的に書いていないところが本書のもっとも衝撃的なところのかもしれない。
マスコミ報道にはウソが多い。誤報や虚報が多いというよりも、AB二面ある物事のAの面だけを強調して報じるなど、バランスを失した報道が多いのだ。たとえば鳥インフルエンザをめぐる報道では、「ヒトに感染すれば5億人が死ぬ」などというトンデモ話をばらまいて、ありもしない恐怖を作り上げていたが、実際には人から人へ感染した例はまったくないという。著者によれば鳥インフルエンザというのは鳥にとっての恐ろしい病気で、人にとってはヒトインフルエンザの方がはるかに危険であり、もっと言えば階段や自動車の方がずっと怖い、というのである。そんなウソは枚挙にいとまがないが、すこぶるつきの「ウソ」といえば、忘れていけない宝くじ。1億円以上が222本も当たるというのが売りだが、こいつで1等が当たる確率は、なんと1年以内に落雷に打たれて死ぬ確率より一桁低いそうなのだ。やれやれ、つまり宝くじってのは、夢というよりウソを買っているものなのね。
| 2005-11-14 石原千秋「国語教科書の思想」 |
小中学校で使われている教科書を検討し、国語という科目が何を教えているのかを浮き彫りにする本。日本の国語教育が行っているのは、実は道徳教育に他ならないという指摘は、他の著作でも幾度となく繰り返しているため新鮮味はないが、資料からニュートラルな情報を読みとり、それをニュートラルに記述する練習と、文学的文章を批判的に読みとり、自分の言葉で表現する練習を別の科目として行うべきだ、という主張など、耳を傾けるべきところは多い。国語の教科書は決して人畜無害なものではない。何かを伝えるために書かれたものなのだから、そこには当然何らかの思想がにじんでいる。コミュニケーションと称してやたらと他人に合わせることを教えるのも、内気な子供が明るく振る舞い始めることをハッピーエンドとみなすのも、言われてみればずいぶん偏った姿勢である。こうしたものの見方は、たとえばクジラやイルカを保護する理由を、人間と同じように賢い動物だから、とする論理にも通じている。つまり自分たちと同質だからこそ価値があるというわけだ。その一方で「みんなちがってみんないい」なんて個性礼賛を平気で口にしているんだから、いったい教育現場における「個性」とは何なんだ、と思う。
| 2005-11-13 岩根圀和「物語 スペインの歴史」 |
表題どおり、いわゆる通史ではなくスペインの歴史のあるひとコマを物語風に描いた読み物である。15世紀末にイスラム王国を滅ぼしてイベリア半島を「取り戻した」国土回復運動(レコンキスタ)は、通常キリスト教国の勝利=めでたしめでたし、という視点で語られることが多いが、ここではそれまでのイスラムの寛容な宗教政策や、高い文化水準を描くことによって、一種の惜しむべき痛恨事として扱われている。こういう視点は歴史を見る上で忘れてはならないものだと思う。
本書は次に、トルコに大勝した無敵艦隊の物語を語る。ここで登場するのは後に「ドン・キホーテ」を著すセルバンテスだ。かれは若かりし頃、レパント沖の海戦に従軍し、胸に被弾し左手を失っているのだそうだ。こういう史実を知ると、ドン・キホーテが奉じる騎士道への狂的な憧れは、じつはパロディでも何でもなく、あるいはセルバンテス自身の夢だったのかもしれない、なんてことを思う。もっとも、戦史の上ではまったく無名の男が、勇敢に戦い、負傷し、帰途トルコの海賊の捕虜となったのち、すんでのところで助けられ、数年の後にやっと故国に帰ったところ、英雄としての名誉どころか仕事にすらありつけないなどという物語などは、いくら悲哀に満ちたものでも歴史とは言えない、と批判する人もいるだろう。たしかにセルバンテスがいなくてもレパント海戦の結果は変わらず、スペインの行く先に何の影響もなかったに違いない。しかしこういう小さな個人を通してみる歴史の方が、より現実の実感に近いとは言えないだろうか。歴史とは、ただ因果の連鎖をいうのではあるまい。
「背教者ユリアヌス」「西行花伝」の辻邦夫が、小説論を語った講演集。彼にとって小説を書くことは「ピアニストがピアノを弾く」ようなものであり、生きることそのものだった。西行を読んでもユリアヌスを読んでも、史実を軸にすえながらも、史実を忠実になぞることよりむしろ、自分の裡に立ち現れてくるものを描こうとしていような印象を受けたものだが、この講演集を読んでなるほど合点がいった。彼によると、小説は現実を模倣するためのものではない。小説の魅力は、自分の好きなもの、自分を生き生きとさせるもの、これぞ生命のシンボルだというものを言葉として取り出すことによって、現実にこれまでとは違った意味を持たせることにある。小説における記述は現実に所属しておらず、われわれの夢想、想像力、内面の世界にのみ結びついて、それを外に表すものなのだ。だから資料を調べても、それが誰かの知識、誰かの経験のままでは駄目で、自分が実際に経験したこととして感じられるように想像を働かせるのが肝要という。川中島の霧の中で葦の上をそよぐ風の音を聴いたとか、川の石を水が転がしていくかすかな音を夜聴くとか、そういう経験をもって書くのだそうだ。うーん、なるほど。
立花隆が臨死体験という一種危険な領域に迫った本。例によってものすごい量の資料にあたり、綿密な取材をしたうえで書いていることがよく分かる。こうしたテーマは一般的にはオカルト的な文脈で語られることが多かったから、すでに社会的な評価の高い評論家としては、取り上げるにあたって相当な葛藤もあっただろう。魂が肉体を離れる経験すなわち対外離脱なんてことは脳内現象に決まっている、というスタンスで書いたらまったく本としては面白くないし、かと言って、死んだら魂が離脱して自分の体を見下ろしていました、なんて話をただ鵜呑みにして書き並べてしまったら、そこらのトンデモ本と同列の胡散臭いものになりかねない。このきわどいバランスを見事に成り立たせている立花隆の力量は、やはり並大抵のものではない。彼は超常現象への対し方について、「科学にとって第一に重要なのは、現象そのものである。いかに異常なあるいは超常的な現象であろうと、現象が存在するなら科学はそれを考察の対象に採り入れなければならない」という。この言葉どおり偏見を捨てて、本当のことに迫ろうとする姿勢がすばらしい。臨死を現実の体験と信じる人も、脳内現象だと思う人も、どちらが読んでもぐいぐい引き込まれるであろう稀有な本。
日本語をテーマにしたエッセイは数多いが、その大半は最近の言葉の乱れを嘆くだけで、読み終わった瞬間に何が書いてあったのか忘れてしまうものばかりである。この言葉は間違っている、こういう言い方はおかしい、なんていう事実の羅列ばかりをしていては、面白くないのは当たり前だ。そんな類書の多い中、この本だけは飛び抜けている。初めて読んだのは二十年以上前だが、たとえば「子供に詩を作らせるな」という主張は、今でも印象強い。実際、国語教育のあり方について、これほど鮮明に主張を打ち出した本はほかにないのではないか。改めて読み返してみても、詩ともいえないまがいものを子供に読ませるな、漢文の初歩を中学で教えろ、「きょ大な飛やく」などという珍妙な表記はやめろ、など、実にくっきりした主張が気持ちいい。中でも教科書を批判するくだりは、鋭さ分かりやすさ印象深さともに図抜けていると思う。
三十年前にはすでにこうした本が書かれ、相当広く読まれていたにもかかわらず、国語をめぐる状況は、いまだに何ひとつよくなっていない。「昭和の知識人は明治の知識人にくらべて遥かに文章が下手になっている」とは著者の言だが、今彼は、この言葉の惨状を見て、何を思っているだろう。
| 2005-11-09 安斎育郎「だます心 だまされる心」 |
著者はオカルト批判の著作が多く、ごく早い時期からオウム真理教のインチキを批判していたことでも知られる。本書でも手品や心理トリックのような罪のないものから、報道機関による情報の改竄、詐欺や悪徳商法の手口に至るまで、世の中に幅広くはびこる「だまし」の実例を挙げながら、科学的な思考を訓練されてきたはずの人までが、いともたやすくだまされてしまう理由を考えてゆく。
うまい儲け話などに乗ってしまうのは濡れ手に粟を夢見る欲のなせることだが、それでは信じても何の得にもならない超常現象を信じてしまうのはなぜだろう。もしかしたら、人は自分の理解を超越した不思議なものの存在を心のどこかで信じたがっているのではないだろうか。じっさい、本書によって時計を動かしたりスプーンを曲げたりする「念力」のトリックを示されても、ぼくにはどこか、そういう合理的な説明を受け入れたくないような気持ちがある。むしろ小林秀雄のように、目の前でスプーンがくにゃりと曲がるのを見た体験を持ちだして、超能力なんてあって当たり前じゃないか、と語る人の方が、よほど物事を深く見通しているように思えてしまうのだ。ま、こういう心情的な判断こそ、まさに「だまされる心」って言うんだろうね。
上田秋成の雨月物語の現代語訳。もとの話がとても面白いので誰が訳してもそれなりに楽しめるのだが、石川淳の本作は、読んでいるうちに現代語ということを忘れてしまうような訳である。これはすごい。きっと秋成の時代の読者はこういう心持で読んだのだろう、という気分が味わえる。技巧を凝らしてある分、原典を忠実に訳すというものではなくなっているが、こういう行き方は悪くない。
さて、雨月物語は、壮絶で妖しい情念が渦巻く怪異譚である。ひとつひとつの話が独立し、文体も微妙に異なりながらも、そこには何かの流れが通底しているような統一感が感じられる。遠方にあって囚われの身となりながら、約束を果たすために自刃して、一日に千里を行く魂となって現れる話とか、都に働きに出た夫が七年の後にわが家に帰り、ひとり待ち続けた妻との一夜を明かすと、そこは朝露に濡れる廃屋であって、妻はとうに亡くなっていることを知る、という話など、いずれもただの怪談ではない味わいがある。ちなみに上田秋成の原文を白石加代子が朗読しているCDもあり、これもまた、違った怖さで素晴らしい。
| 2005-11-07 増田義郎「古代アステカ王国」 |
アステカ王国と言えば、黄金に目の眩んだ狂気の殺戮者フェルナンド・コルテスによって滅ぼされた悲劇の王国、という印象が強い。またアステカの人たちについては、コルテスたちを古くから伝わる伝説にいうケツァル・コアトル神の再来だと信じてしまったという逸話から、ただ素朴で無垢な人たちだったように思われがちである。ところがアステカという国は、周囲の国々に恐れられる強大な王国であり、その特殊な信仰から、毎日欠かさず人間を生け贄として捧げなければ太陽が闇に呑み込まれこの世は終わってしまう、と固く信じていた恐るべき社会だったのだ。コルテスが千人にも満たない手勢で隆盛を誇る王国を征服できたのは、彼の率いるスペイン人の強さと、アステカの圧制に不満を持つ他のインディオ諸族の力によることは間違いないが、何よりもアステカが依って立つ信仰そのものの自壊作用と言えなくもない。
本書は主としてスペイン側の資料によっているためか、コルテスは、知略にすぐれ、冷静にして勇猛で、決断力にも統率力にも優れる英雄として描かれる。非道な侵略史を予想していたために、この視点は意外だった。1963年初版の古い本だけに、同じ著者による「物語ラテン・アメリカの歴史」とは相当異なる記述も多い。こちらも面白い本なので、読み比べてみるとよいかも知れない。
| 2005-11-06 生田滋「大航海時代とモルッカ諸島」 |
モルッカ諸島というのはインドネシアにある小さな島の集まりで、本書の舞台となった16世紀には、丁字(クローブ)の唯一の産地だった。そして丁字は非常に貴重な香料だったから、周囲わずかに30キロという小さな島のいくつかを巡って、ポルトガルとスペインが争うことになったのだ。もちろんそこに島の住民との抗争が加わることは言うまでもない。地の果ての小島での争いだからせいぜい数十人規模の小ぜりあいなのだけれど、一攫千金を夢見て命を懸けようという男たちが正義と欲とを行き来しながらせめぎ合うさまは、大きなドラマに引けを取らない。ことに高潔のカピタン、アントニオ・ガルヴァンが、時代の流れという冷厳な力に押し流されてゆくさまは、見る間に舞台が暗転する一場の劇を見るようだ。とは言うものの、本書の記述は全体を通して実に淡々としているため、読む側に相応の努力と想像力が求められる。読み流すのは時間の無駄だが、色鉛筆を片手に行きつ戻りつしながら読めば、非常に面白い本だと思う。
圧政に苦しむ人々を救うのだという大号令で、アメリカがイラクに攻め込んでからもうずいぶんになる。圧政の元凶であったサダム・フセインはすでに倒れたが、泥沼化したイラクの行く末はいまだ光を見ない。1999年にNATO軍が、ユーゴで迫害されているアルバニア系の住民を救うという名目で同地を空爆したことも記憶に新しいが、あのときも空爆によっていちばん犠牲になったのは救われるべき当のアルバニア系の人たちだったし、空爆後はさらに迫害がエスカレートしたとも言われる。正義の名の下に実効的な介入をすることがいかに難しいかが分かろうというものだ。本書は、大国が人道的と自称して他国の内政に軍事力をもって介入することの非をただす、という姿勢ではなく、赤十字国際委員会や国境なき医師団などによる救援活動をも視野に入れながら、現実的に有効な介入のあり方をさまざまな事例を通して模索している。平和的な方法で困っている人を支援する、というだけでは、たとえば民族浄化と言われるようなおぞましいジェノサイドを止めさせることはできない。殺してはいけない、なんていう甘い感情だけでは悪を排し人の命を守ることはできないのだ。ただ正義を語り、平和を望むのは簡単だが、それを実現する方法となると、じつに難しいものだと分かる。
ペストの流行といえば14世紀のヨーロッパのものを思い出すが、実際には、世界のあちこちで何回も繰り返されてきた。ペスト菌が発見されるのは19世紀の末だから、それまでのペスト流行の渦中にある人たちは、まったく正体の分からない<死>そのものに、ただ怯えるしかなかった。もちろん原因が分からないのだから、効果的な治療法などあるはずもない。正確な人口統計のなかった時代だからあくまで推測に過ぎないが、14世紀の流行時には全ヨーロッパで三千万人もの人が犠牲になったと言われる。こうした中で正気を保てという方が無理だろう。ペストによる死の恐怖は、いくつもの集団的な狂気を生んだ。ユダヤ人が毒を井戸に投げ込んだという風評が流され、それに怒り狂った群衆が暴徒と化して虐殺が広がったこともあった。我と我が身を鞭打ちながらねり歩く宗教運動も盛んになった。ペストの残した痕跡の深さ広さに改めて驚かされる本。
著者は毎日新聞の特派員。インドには4年間滞在して取材したことをまとめたルポルタージュである。著者に向けて直接語られたことばをまとめただけあって、資料を継ぎ合わせて書いたものとはまるで違った手触りを感じる。アウトカースト(不可触民)の悲惨な暮らしぶりを描いたり、多額の持参金を求められて苦しむ花嫁たちの嘆きを伝えたりする一方、トイレットペーパーのかわりに左手を使うコックの料理をこれから何年も食べるのか、と嘆いてみせたりするのが何ともおかしい。妙な言い方だが、この人のレポートは現場のただ中で書かれているにもかかわらず、妙な正義を振りかざして差別に憤ったり、インドの聖性に触れて神秘の世界にトリップしちゃったりしないところが優れていると思う。インドを描いていながら過剰な思い入れを持たず、これだけ平静でいられる人は珍しいのではないか。バランスのとれた好著だと思う。
半七捕物帳の岡本綺堂の随筆集。雑多な文章をとにかく一冊にまとめてしまった本なので、全体としての統一感はまるでないが、江戸を懐かしむ文章には素晴らしいものがある。明治5年生まれの綺堂が江戸時代を思い出すとは妙な感じに聞こえるかもしれないが、平成5年生まれの者が昭和を身近に感じることと同じで、何も怪しむことではない。冒頭の、子どもの頃に見た歌舞伎の話「島原の夢」がいい。記憶も描写もじつにあざやかだ。絢爛とした舞台に陶然として身動きもしなかったという少年綺堂の高揚が伝わってくるようである。町内の露地の角に住む左官の一家を描いた「ゆず湯」もよい。薄幸な一家を憐れむだけでもなく、人の薄情さを嘆いてみせるでもなく、悲惨な暮らしの中にありながら、江戸っ子の誇りを胸にどこまでも強情に生きた人たちの生き方に、過ぎ去った時代の残り火を見ていたようだ。
それにしても、身辺雑記というような軽い随筆も、中国や日本の古い怪談奇譚も、すべてまとめて一冊にしてしまうという編集の仕方はどうなんだろう。よいものを合計したらもっとよくなると決まったものでもあるまい。
| 2005-11-01 池田修・牛島信明ほか「古典の扉 第一集」 |
京都精華大学の特別講座の講義録。養老孟司、辻井喬、木田元など有名どころの講義も収録されているが、池田修の「アラビアン・ナイト」と牛島信明の「ドン・キホーテ」が抜群に面白い。アラビアン・ナイトは当のアラブでは低俗な読み物としてまったく評価されていないとか、翻訳され、ヨーロッパに紹介されるときに大きく変化をしてしまった、などという話は意外だった。18世紀以来、何人もの人が翻訳をしているのだが、どいつもこいつも好き勝手をやっていて、原典にない話を付け加えたり、気に入らない話を省いたり、自分の好みに合わせて話を改変したり、自作の物語を書き加えたりしているものばかりなのだそうだ。なんと、かのアラジンの話も、アリババの話も、空飛ぶ絨毯も、原典にはないお話だと知って驚いた。ヨーロッパ人にとって尊重すべき古典はギリシャのそれであって、イスラムのものなどは単にエキゾチックな趣味を充たせばそれでいい、くらいに考えていたのだろうか。ほかの講師のお話も「古事記」「マルクス」「解体新書」「ハイデガー」を扱い、それなりに面白い。「ドン・キホーテ」の牛島信明については、後日別の本を取り上げるつもり。
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