こんな本を読みました。


2005-10-31 池上俊一「賭博・暴力・社交」

副題は「遊びからみる中世ヨーロッパ」。中世の子どもの遊びには、コマを回したりボールを投げたり鬼ごっこをしたりといった今と変わらないものもあれば、うんちを顔に塗りたくって遊ぶなんていう野蛮さを色濃く残した強烈なものもあったが、全体としてみれば、大人の遊びと子どもの遊びは、今日ほどはっきり区別されていたわけではなかった。大人たちもまた、ボール遊びや取っ組み合いを楽しんだ。ただこれが都市対抗の競技となれば、歯を折り四肢を砕くほど攻撃的で凄惨な様相を呈したから、ここまでくると遊びはすでに命がけであった。もちろん、サイコロやトランプといった賭け事や、チェスなどの盤上ゲームに夢中になったことは言うまでもない。こうした多様な遊びは、ただの気晴らしとして生まれたわけではなく、多くは呪術的な儀礼として受け継がれてきたものだ。中世において遊びと労働は、別段対立する概念ではなかったのだ。しかし、だんだん労働に価値が置かれるようになると、無為な遊びは抑圧されるようになってくる。人というものは、心で思い楽しむことまで社会関係やら歴史的状況によって定められているものだってか。

 

2005-10-30 石弘之ほか「環境と文明の世界史」

環境史という視点から世界史を縦横に語り合う非常にスリリングな鼎談。歴史というものは人間の営みだけで作られてきたように語られがちだが、決してそういうものではない。人類は、環境の変化によって生存に関わるほどの大きな影響を幾度となく受けてきたし、ときには人間による働きかけが環境のバランスを崩し、そのために手ひどい目にあわされることもあった。たとえば、14世紀のペスト禍も、元をたどれば人間による「環境破壊」に端を発するそうだ。ペストを媒介するクマネズミはもともと森に棲み、フクロウやオオカミという天敵のために大発生することはなかったが、開墾が進み畑が広がると、とうとう森を出て畑をすみかにするようになった。おりも悪く、キリスト教世界ではオオカミやフクロウを悪魔の使いとして手当たり次第に殺してしまっていたから、ネズミはもう増え放題にふえてしまった、というわけだ。
本書の話題は20万年前から現代まで、日本や中国、イスラム世界、ラテンアメリカ、アフリカまでと実に幅広いため、ダイナミックな歴史の脈動のようなものが感じられてわくわくする。3人の研究者がお互いの研究に敬意を示し素直に感心しながらも、きちんと自説を語る姿勢もすばらしい。おもしろかったあ。

 

2005-10-29 藤原和彦「イスラム過激原理主義」

仏教やキリスト教にさまざまな宗派があるように、イスラム教にも硬軟さまざまなグループがある。本来「原理主義」というのはキリスト教の宗派を指す用語で、聖書を自分なりに(つまり自分勝手に)かつ字義通りに解釈しようとするちょっと困ったグループのことを言うが、イスラム原理主義者というのは、まったくそういうものではない。彼らはコーランを厳密に適用することよりも、政治的に敵対する勢力に対し武力闘争を辞さない、という姿勢を持つ過激派であって、ふつうのイスラム教徒とは、まったく異質の連中なのだ。このことは、たとえばエジプトで日本人を含む多数の観光客を虐殺したルクソール事件ひとつを見ても、それは明らかだ。あの事件で犯人どもは目を覆うばかり残虐行為をはたらいたが、遺体を故意に傷つけることは、コーランで固く禁じられていることなのである。
本書は、主にこうした過激派が起こしてきた悲惨なテロの背景と経緯を、いかにもジャーナリストらしい臨場感あふれる筆致で一気に読ませてくれる。しかし、読後もなお、テロの背後にあるもうひとつ奥の事情が分からないようなもどかしさは残ったままだ。テロを実行する者はいざ知らず、それを指導する連中を駆り立てるのは、ただ宗教的な狂信だけではあるまい。

 

2005-10-28 森昭雄「ゲーム脳の恐怖」

口を半開きにしてゲームに熱中する子どもを見ていると、こいつの脳ミソは溶けているんじゃないか、と思うことがある。そうした予感を裏付けるような恐ろしいデータを示してくれるのが本書である。著者が開発した機器で、ゲームをしている子どもの脳波を測定してみると、なんとその脳波は痴呆と同じ、なのだそうである。これが本当だとしたら大変なことである。ゲームのせいで、「無表情で笑顔がなく」「自分勝手で」「羞恥心がない」ゲーム脳人間になってしまい、さらに相手を殺したりするゲームを繰り返していると「ナイフで自分を防御しようと思うようになるかもしれ」ず、「自分の身を守るために警官のピストルを奪おうとする行為に及んでしまうかもしれ」ない、というから恐ろしい。それだけではない。ゲーム脳というのは……、ふう、これぐらいでいいか。脳科学の専門的なことはちーとも分からないが、この推論の粗さは何なのか。ゲームは悪だという結論を導きたい気持ちは分かるが、こういう理屈はいただけない。科学の仮面をつけた、典型的なトンデモ本。

 

2005-10-27 八木秀次「尋常小学修身書」

明治37年から昭和16年にかけて発行された「修身」の教科書から百余編を選んでまとめた本である。修身すなわち「身を修める」という心づもり自体をなくしまった今日の目から見ると、まことに清新な感じがする。旧弊として捨てられたものを清新というのも妙な話だが、それほどまでに、今日のわれわれは「修身」という世界から遠ざかってしまった。
いつだったか、こどもの「道徳」の教科書を見ていたら、「しんごうをまもろう」とか「はをみがこう」なんてことが書かれていて、びっくりしたことがある。自分の身を守ろうとするだけのことを、ふつうは道徳とは言わないだろう。もちろん今の「道徳教育」でも、感謝の気持ちの尊さや勤労の素晴らしさを教えようとはしているが、昔の「修身教育」とは何より語り口が違うから、そこからにじみ出る意味も自ずから違ってきてしまう。かつてのように権威ある者として語るのと、今のように子どもの目線からやさしく語るのとでは、同じ内容であっても同じではないのだ。

2005-10-26 柄谷行人「日本近代文学の起源」

目の前にあるものがどう見えるか、というのは、見る人の感受性の問題でなく、もっぱらその時代が依って立っている制度の問題である。たとえば美しい渓谷美を見せるアルプスの山も、ルソーが告白録を書くまでは、ただ交通を妨げる邪魔なものとしてしか見られていなかった。日本でも、和歌や漢詩の伝統の中で叙景そのものはさかんに行われてはきたものの、それは今日われわれが風景を味わうのとはまるで違っていて、いわば目の前にある眺めを古典の中の類似したものと重ね合わせて、ふふ同じだあ、と喜ぶだけのことだったのだ。わが国における近代的な「風景」の発見は、言文一致による言語の音声化と、それによる自己の客観視と、その結果としての「内面」の発見によって、初めてなされたことである。本書を始めて読んだのは学生の頃だったが、自明に見える「風景」「内面」「子ども」などというものが、実は明治以降、新しい制度によって生み出されたものだと知って、本当にぶったまげた。自分勝手に生きているつもりでいても、われわれは皆、社会というか制度というか歴史というか、そういう大きな流れに絡め取られているんだなあ。

 

2005-10-25 ミシェル・ペイバー「オオカミ族の少年」

六千年前、まだ人が森の中で獣を追い、果実を集め、魚を捕らえて暮らしていた時代を舞台にした物語。子供向けのファンタジーでありながら、太古の昔の雰囲気がよく描けていて楽しめた。悪霊に憑かれた巨大な熊に父を殺された少年が、小さなオオカミの子とワタリガラス族の少女とともに、精霊の棲む聖なる山をめざしてはるかな旅をするお話。ただファンタジーと言っても超自然的な魔術が出てくるわけではない。せいぜい主人公の少年がオオカミの言葉を解する程度のことである。おそらく作者には、人が自然の一部であり、命というものは互いにつながりながら存在するもの、という世界観が底流にあるのだろう。だから超自然的な魔法が登場したり、主人公が超人的な能力を発揮するような物語にしたくなかったのではないかと思う。挿し絵は原書のジェフ・テイラーの方が良かったが、日本版は酒井駒子の表紙が素晴らしい。映画化も決まっているらしいが、そのわりには話題にならなかったなあ。

 

2005-10-24 内田樹「『おじさん』的思考」

じっくりと構想を練って書かれた本ではない。本としての成り立ちは、ウェブ上に書き散らした文章を、がさがさ拾い集めて一冊にしてしまっただけのものといってよい。しかし、じつに刺激的だ。ひとつながりになった本ではないので、全体の内容を要約することはできないが、たとえば憲法九条を擁護する論調はおもしろかった。彼は、改憲論者が第九条に武力行使のできる条件を織り込もうとするのはおかしい、という。「人を殺さなければならない場合がある」ということと「人を殺してもよい条件を確定する」のとは、論理的にはまったく関係がなく、人を殺してもよい条件を確定してしまうと、あとは人を殺したいときにクリアすべき条件を探し出すことだけに頭を使うようになる、というのがその理由だ。こういうひねくれ気味の正論というのは気持ちいい。
教育について発言するときも、彼は絶妙のひねくれ加減を見せてくれる。「だれそれに叱られるからやめなさい」という言い方で子どもを叱るのはいけないとされているが、よいのではないか。なぜならこどもは、これをもって親の力の及ばないところに「社会的規範」が存在するということを知り社会化されていくのだから、という具合だ。あたまのよい不良おじさんの説教に丸め込まれるのって、なんだか気持ちいいなあ。

 

2005-10-23 ロアルド・ダール「魔女がいっぱい」

ロアルド・ダールといえば「チョコレート工場の秘密」ばかりが有名だが、ストーリーとしてはこちらの方が面白いかも。魔女のことなら何でも知っているおばあちゃんと孫のぼくが、思わぬ成り行きから、おそろしい魔女とたたかうお話だ。とはいっても、昼なお暗い森だとか石造りの冷たい城とか、勇敢な騎士や囚われになった可憐なお姫様が出てくるわけではない。物語の舞台は、空気の良い浜辺の町のホテルである。
あるときぼくは、「児童愛護協会」の集会が開かれるホールに迷い込んでしまう。とっさに物陰に隠れてみると、集まってきた人たちは、ひとり残らず魔女だった。魔女は子どもが大嫌いで、どこに隠れても、子どものにおいはきっと嗅ぎ分けるという。さあ、ぼくは無事逃げのびることができるのか…?
単純なハッピーエンドを期待する人にはちょっと意外な結末だろうが、読後感はとてもよく、最後まですっかり楽しめる。
欲を言えば、翻訳が読みにくい。大魔女は強烈なキャラクターで、原作でも、wをvに、rをrrrという具合に特徴ある発音をしているが、しかし「気分がわりゅくなるざんす」と訳すのはやりすぎだろう。これでは子どもがついていけない。らりるれろの音はすべて崩すという機械的な操作ではなく、もう少し日本語としての読みやすさを考慮した翻訳をしてもよかったのではないだろうか。

 

2005-10-22 ロアルド・ダール「チョコレート工場の秘密」

映画の公開に刺激されて、今やベストセラーである。貧しく素直なチャーリーくんが、金持ちでわがままで生意気で意地汚くて自分勝手でろくでもないガキどもと一緒に、世界でもっとも素晴らしいチョコレート工場に招待されるおはなし。ストーリーとしては大きな展開があるわけでもないから、奇想天外な物語空間を楽しみ、音楽を聴くように読むといい。長く田村隆一の訳で親しまれてきたが、今売れているのは柳瀬尚紀の新訳。ジョイスの翻訳で名人芸を見せた訳者が、ここでも原作のイメージを忠実に伝えるためにずいぶん凝った訳を見せてくれる。登場人物の名前すらカタカナ表記にするだけではよしとせず、原語の意味をふまえて「翻訳」してしまうほどなのだ(主人公のチャーリー・バケットくんは、翻訳されて「チャーリー・バケツ」となっている)。しかし、個人的な好みなのかも知れないが、こうした技巧を凝らした柳瀬の訳よりも、本としての読みやすさとしては田村隆一の古い訳の方がずっと勝っている。もっとも旧版は表紙とイラストがあまりに不気味だったから、できれば、田村の訳にクェンティン・ブレイクの絵をつけたバージョンを読んでみたいものである。

 

2005-10-21 鶴見良行「バナナと日本人」

何とものんびりしたタイトルだが、中身はじつにシビアである。1970年には日本市場の6.5パーセントを占めるに過ぎなかったフィリピンのバナナは、わずか10年の後には90パーセントを超えるようになった。かれらはおどろくほど短い期間に、この巨大な市場を手中に収めたわけである。かれらというのはフィリピンではなく、アメリカの多国籍企業3社と住友商事のことである。ことにドールやデルモンテなどのアメリカ資本は、やることがいかにも「勝ち組」らしく徹底している。バナナ栽培を始めるために必要な資金を農家に融資し、バナナが収穫できたら買い上げて日本に向けて輸出する、という仕組みだけを聞けば別にどうということはないが、しかし貸付金の回収、肥料や農薬代、技術指導などの名目で、ときには売上げの96パーセントもさっ引くというのだからすさまじい。契約農家がそれだから、そこで働く農民となるともう悲惨というのも酷いありさまだ。ふたりで働いて、一人分の賃金を分け合うという信じられない雇用形態までが横行しているらしい。いつの世も、苦しみは下へ下へと沈んでいくのだ。20年以上前に書かれた本だけれど、フィリピンでは、今もこんな非道がまかり通っているのだろうか。

 

2005-10-20 ポール・エリュアール「自由」

対ナチス・レジスタンスの詩としてあまりにも有名な作品。ナチスの占領下に出版され、当時フランスにあってこの詩を知らない者はいないといわれるほど愛唱された。甘ったるく愛を語るのではなく、ぼんやり平和を夢想するのでもない。この世界の端から端に至るかのように、永遠から永遠につづくかのように、満ちあふれ、ほとばしる多彩なことば。そして奔流のようなことばのすべて、明滅するイメージのすべてが、音楽のように響き合い、たった一つ、「自由」ということばに収束してゆく。
手許にあるのは朔北社の絵本。クロード・ゴワランの美しく力強い絵は素晴らしいが、こやま峰子の訳がやや物足りないか。リズムもいいし、雰囲気はじゅうぶんなのだが、どうも正確な解釈より響きのよさを採っているような気がする。もっとも、詩といういくつものイメージが重なり合っている表現を、ほかの言語に翻訳すること自体が無理なのかもしれないのだけれど。安藤次男の訳と併読すればさらに深く味わえるだろう。

 

2005-10-19 キャサリン・サンソム「東京に暮す」

著者はイギリス人で、昭和3年からの数年間を日本で過ごした。目にするものすべてが新鮮だったようで、当時の日本人の暮らしぶりを実に細かく記録してくれている。それも奇妙な習慣を取り上げてくすくす笑うような書き方ではなく、日本に対する関心と尊敬がにじみ出ているような、まことに品のある文章である。これは大久保美春のうつくしい翻訳によるところも多いだろう。ここに登場する日本人は実に多彩である。外交官夫人として接する上流の人だけでなく、田んぼで働く百姓から、植木職人、バスの運転手、たくましいおばさんなど、どんな人とも交わって楽しんでいる様子がよく分かる。戦前の日本というと、なんだか暗く抑圧された社会であるような印象を抱きがちだが、この本を読む限り、誰もが陽気で明るい。質素で単調な生活とされながらも、子どもは大事にされて思う存分遊び、大人たちも「まるで宴会のために生まれてきたような国民」と評されるほどである。戦争を反省するのは結構だが、その時代のあらゆるものをついでとばかりに否定してしまうのは愚かなことだ。この懐かしくも美しい日本人の姿を見てほしい。

 

2005-10-18 橋爪大三郎「人間にとって法とは何か」

法学なんてものはふつうはまったく面白くないものだが、さすが橋爪大三郎、めっぽう面白い講義をしてくれた。法律は、欧米社会では個人を守るためのものだと考えられているのに対し、日本では個人をいじめるためのものと思われているという指摘も、そういう法意識がどこから生まれてきているのかという考察も、じつに面白い。とくに本書で光るのは、宗教法についての解説である。中でも近代法の政教分離という考え方の出所を、宗教的な原則をそのまま社会に当てはめるほどキリスト教が強くなかった、という事情に求めるところや、ユダヤ教の神との契約というアイデアを、神ではなく国家との契約と置き換えたら、ほれ憲法の精神ができあがるじゃないか、という指摘にはうならされた。イスラム教や仏教、儒教などと法の関わりも説明してあって、法というものの多様さに今さらながら気づかされる。
わが日本は、欧米風の近代法は採用したものの、それができあがってきた歴史を共有していないせいか、残念ながら法律意識ははなはだ希薄であるという。しかし、権利ばかりを声高に主張する「法律意識の豊かな」社会よりも、自分の権利もロクに知らないようなのんびりした社会の方がいい、という主張もまた健全だと思うんだけど。

 

2005-10-17 森博嗣「臨機応変・変問自在」

名古屋にある某国立大学の元助教授にしてミステリー作家である著者が、学生から集めた質問と、それに対する答えを集めた(だけ)の本である。いかにも理系の先生、という著者が、未熟な学生の質問にそっけなくしかし論理的に答えるようすが実におかしい。「東京タワーの上から缶ジュースのタブを落として、地上にいる人の頭に当たると、その人は死ぬというのは本当ですか」「嘘。ただし、人はいずれは死ぬので、命題としては真」だとか、「傘を広げて飛び降りようとすれば、どのくらいの大きさが必要ですか」「普通の傘で十分。広げる必要もない。ただし、高い所からで、怪我をしたくない場合には、落下傘くらいの大きさが必要でしょう」なんていう問答は最高。しかし、本書の価値は質問や回答の内容にではなく、問答のしかたや問答する意識にある、というのが著者の弁である。著者が授業のたびに学生に質問を書かせてきたのは、学生の問う能力を鍛えるためだ。しかし、そんな願いをよそに、学生の側には正しく質問しようという意思がほとんど感じられない。本としてはその馬鹿さ加減がいいカンジなのだが、何だかちょっと腹立たしい。

 

2005-10-16 西林克彦「わかったつもり」

わかったつもりはおそろしい。いっそ難しくて分からないのであれば、何度も読み返したり、いろいろ調べたりして分かることも多いが、「わかったつもり」は、気分としては安定しているから、それ以上探求しようという気は起こらないのだ。本書は、この「わかったつもり」から脱却して、深く分かるためにどう読むべきか、を研究する過程で生まれた本である。もちろん読みにくい専門書などではなく、実に明快に「わかる」と「わからない」の境目を示してくれる。たとえば「布が破れていたので、干し草の山が問題だった」というようなわけの分からない文でも「パラシュートの話だ」と言われると(文脈が与えられると)たちどころに分かってしまう、というようにである。途中、小学校2年生のテキストですらろくに読めていないという事実を突きつけられるのには参ったが、同時にいたって簡単なことを心がけるだけで、かくも読みの深さが変わるものかと驚きもした。前著「『わかる』のしくみ」に続く読解のための指南書だが、分かりやすい文章表現のための手引きとしても有用だろう。

 

2005-10-15 角山栄「茶の世界史」

16世紀後半、初めて日本にやってきたヨーロッパ人は、茶という飲み物と、茶の湯という深い精神文化に接して驚倒した。当時のヨーロッパはまだ手づかみで食事をしているくらいの野蛮な段階だったから、そりゃ驚いたろう。最初にヨーロッパに伝えられたのは日本茶だったが、のちに中国茶がとって代わった。たかがお茶と思ってはいけない。この中国の茶とインドの綿布がヨーロッパの商人に莫大な利益をもたらして、近代資本主義を促進する大きな契機となったのだ。よく知られたことだが、イギリスは中国から茶を輸入し、かわりに阿片を売りつけていた。また、17世紀以来インドからは綿布を買い付けていたが、産業革命によってインド綿布の模倣が可能になると、インド綿を閉め出すばかりでなく、綿職工を捕らえ、目をくり抜き手を切り落とすということまでして、インドの綿業を壊滅させてしまったという。東洋の産物や文化がヨーロッパに受け入れられたという嬉しげな事実も、実態はこんなことだったのだ。日本の緑茶は最初は中国茶と、のちにはインド・セイロン茶と争って、結局世界市場に残ることができなかったが、それはそれでよかったような気がするなあ。

 

2005-10-14 宮田律「現代イスラムの潮流」

われわれは、近代化=西欧化することがすなわち歴史の進歩であると思いこんでいる。ところが、イスラームの論理はまったく別である。現にイランは1979年に、近代化路線を捨ててイスラーム社会を建設することを選んだが、このことはけっして彼らが不合理な迷信に凝り固まる蒙昧な連中だということを意味しない。むしろ彼らは彼らなりの論理で、きわめて明晰かつ合理的な判断を下したととらえた方がよい。すなわちイスラム社会というのは、遅れてしまった社会なのではなく、貧富の差の拡大をともなう自由競争よりも、不自由ながらもだれも飢えない相互扶助を、あえて選択した社会なのだ。80年代にはトルコやアルジェリアが市場経済原理を採り入れたが、合理化による失業や通貨の切り下げによるインフレなどが起こり、大きな社会不安を招く結果になった。西欧モデルの導入が必ずしも社会に幸福をもたらすとは限らないのだ。こういう本を読むと、これしかないと思いこんでいる世界が、ぐぐっと広がるような心地がする。

 

2005-10-13 小松和彦「日本の呪い」

呪いと言われて思い出す人物といえば、菅原道真や崇徳上皇くらいかも知れないが、日本の歴史の舞台裏はつねに呪術に充たされているといってよい。なにしろ呪術というのは、われわれの科学と同じように、なぜそれがここに起こるのか、ということを説明する体系に他ならないからだ。呪いはただの迷信ではなく、いっそ今日の言葉でいうテクノロジーに近い。実際、ある病気が流行ったときに、それはこれこれのウイルスのせいだと教えられるのと、これこれの呪いのせいだと囁かれるのとでは、いったいどれほどのの違いがあるだろう。病気の原因を何と名付けようと、誰かにすがるしかない民衆にとって、科学者も護持僧も同じようなものである。
目に見えないケガレを「鬼」に負わせ、それを追い払うことによって祓い清めるというシステムは、今日の社会にも形を変えて受け継がれている。だれか悪者を見つけだしてスケープゴートとして祓い捨て、それによって社会の浄化をはかる、というやり方はいつの時代にも絶えたことがない。われわれは、今日もなお、大きな呪術の世界に生きているのだ。

 

2005-10-12 山田真哉「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」

会計学の本なのに、なんと百万部も売れてしまったというすごい本。手許にあるのは初版だから、ちょっと流行を先取りした気分。身近な話題から会計学というあまり馴染みのない世界を覗かせてくれる手法は鮮やかで、たしかに面白い。さおだけ屋だけでなく、普通の住宅街にある一万円以上のコースだけフランス料理店など、どう見ても儲かりそうもない商売がどうして成り立つのか、という秘密を会計学の視点から探っていくさまは、ちょっとした謎解きのようである。ほかにも「50人にひとりがタダになる」というようなキャンペーンは一見利益を度外視しているように見えるけれど実はそうでもない、などという例も、よく目にするだけに納得がいく。
もっとも本書は会計学の本であって、ルポルタージュではないから、突撃レポートのようなものを期待してはいけない。さおだけ屋の意外な秘密、なんて話は真に受けず、一種の寓話と思って楽しんだ方がよいだろう。著者のねらいはさおだけ屋の実態を明らかにすることではなく、会計学をやさしく説くところにあるのだからあたりまえである。それにしても、うまいタイトルだなあ。

 

2005-10-11 小松和彦+立松和平「他界をワープする」

本書は小松・立松両氏の対談であるが、立松和平が小説家らしいいきいきとした話題を語り、それに小松和彦が民俗学的な立場から論評をし、補足をするというバランスがすばらしい。立松和平が知識のレベルで張り合おうとせず、自分の見聞きした具体的な話を振ることで相手の知識をうまく引き出している。オレがオレがと自説をがなり合うような討論にはうんざりするが、こういう謙虚な語り合いは気持ちがいい。本書のテーマは「他界」である。
ほんの数十年前までは、人が住むところの隣に他界があった。他界というのは、ごくかいつまんで言うと、自分が住んでいるのとは別の世界のことだ。柴を集めて山奥に入ったら見たこともないお屋敷があってうんぬん、というような民話をイメージすれば分かりやすいだろう。この他界は、あるときは迷い込んで神隠しにあってしまうような闇の世界であり、またあるときは共同体に富をもたらす場でもあった。そこからは様々なものがやってきて、共同体に新しい命を吹き込んだ。われわれの世界は、他界と接することでいきいきとした力を保ってきたのである。すべてを合理的に解釈しようとするよりも、はるかに深い智恵かもしれない。


2005-10-10 小林道雄「『個性』なんかいらない!」

誰にでも素晴らしい個性がある、という言葉によって苦しむ人たちがいる。個性というのが他人より優れた何か、人とは違った何かであるかのように受け取られているからである。一方、彼らは仲間はずれにされることを極度に恐れているから、人と違った行動を取れず、いつも誰かとつるんでいないと不安でならない。これを筆者は“つながってなくちゃなんない症候群”と呼ぶ。彼女たちの幼児性は、自立心に欠け、誰かに依存せずにはいられないことだけでなく、たとえば高校生になってなお、キティちゃんを手放せないというようなことにも表れている。幼児性を引きずり、つながっていなくちゃなんないと思いこみ、その上、誰とも違った個性がない自分はダメだと思いこんでしまう。そんな風に悩んでいる若い人たちに、著者は講演でこう語ったそうだ。「個性がないと思っている人は、慎ましやかな、おとなしい個性を持っている。それもまた良い個性で、わたしはそういう個性の人が好きです」。この言葉に多くの学生が救われたというが、こんな簡潔な言葉にすら接したことがなかったとは何とも痛ましい。膨大な情報と饒舌な会話が飛び交うこの世の中で、彼らは日頃、どんな人たちと暮らし、どんな言葉に囲まれているのだろう。

2005-10-09 R.J.ブレネマン「フラーがぼくたちに話したこと」

バックミンスター・フラーは幾何学者だが、机上で数学を考えるだけでなく、実際にそれを使った建築を発明した。三角形を組み合わせたフレームで丸いドームを支える、ジオデシック・ドームである。丈夫で、わずかな資材で大きな空間を生み出す建築として、わが国でも富士山のレーダードームに採用され、世界で20万個以上が建てられた。またフラーは「宇宙船地球号」という概念の提唱者としても知られている。そんな人の講義だからさすがに話題は多岐にわたるが、メインは3人の子どもたちに幾何学を教える部分で、いやこれが、すこぶる面白い。たとえば、そこで扱う幾何とは「ある経線を北極から赤道までおり、それから赤道上を赤道の長さの四分の一だけ動き、そこから新しい経線にのって北極までもどると」「非常に現実的な地球の上に、ひじょうに現実的な三角形をつくったにもかかわらす、その角度の合計は270度になってしまった」というような具合で、紙の上の小さな平面で考えるものとはまったく違った世界が示される。かなり高度な講義なのだが、授業を受けインタビューをする子どもたちが実にしっかり反応して、ほれぼれするようなセッションを見せてくれる。

 

2005-10-08 山際素男「不可触民」

一度インドに行ったことがある。餓鬼のように群がる貧民の中に、手首から先のない乞食がいた。聞けば乞食の子として生まれたからには乞食として生きるしかないのだから、いっそ不具であった方が同情される分だけもらいも多かろう、ということで親の手によって切り落とされてしまったのだという。こういう悲惨なことが後を絶たないのは、数千年来の激しい身分差別が社会の根幹に巣食っていることによる。現代のインドは表面上はカーストによる差別が禁止され、一定の割合で下層カーストから雇用しなくてはならないなどという法律も作られているが、本書に描かれる不可触民の実態は、およそ人間らしい扱いとは程遠いものだ。ことに農村における差別は甚だしく、力ある者たちにいいように利用され、踏みにじられ、殺される姿が、次々に描き出される。不可触民は1億人以上もいて、インド社会を支えている。インドという国は、彼らを差別し賎業を担わせることによって初めて成り立つ特異な社会なのだ。非人間的なカースト差別と戦ったのはガンジーと対立したアンベードカルただひとりだった、と言われると、われわれのインド理解の浅薄さを突かれたようで言葉もない。20年以上前の本なので、今日のインドがここに描かれているままなのかは分からないが、世界のありようを知るためには、必読の書と言ってよいかと思う。

 

2005-10-07 保坂和志「書きあぐねている人のための小説入門」

タイトルの通り、小説の書き方を述べた本である。しかし本書は、谷崎いらい山ほど書かれた文章読本や作文技術の本とはまったく別物。視点の高さがまるで違う。著者によると、意外なストーリーで読み手をわくわくさせるような物語は、小説ではない。きちんと結末を決めてあり、そこに向かって書かれるような作品も小説ではない。小説は、書き手の頭の中にあるものを整然と書き並べていくようなものではなく、書くことによって書き手が成長していくような、小説という形態を取らなければ表現できないようなものであるべきだからだ。一気読みできるような作品は、何も新しいものを含んでいない以上、とうていよい小説とは言えない。小説は日常生活を反映したものに留まらず、むしろみずからが光源となって日常を照らし、そこでの美意識や論理のあり方を作り出していくべきものなのだ。本書ではこうした「そもそも小説はどういうものであるべきか」という大きな括りから、非常に実践的な書き方そのものまで、作家保坂和志の「手の内」が惜しげもなくさらされている。こんなことができるのも、おそらく彼に、次に書くものはもうこの先を行っている、という自信があるからだろうし、ここに書いただけのことは、自分の作品にちゃんと現れていると自負しているからだろう。作家の力の奥深さに圧倒される一冊。

 

2005-10-06 ライアル・ワトソン「生命潮流」

世の中には、ときとして理屈では説明できない不思議なことが起こる。しかしそういう話はまともな人間が口にするものではない。われわれは、科学的な態度とはそういうものだと教えられてきた。
ところがライアル・ワトソンは、医学、数学、心理学、化学その他もろもろの学位を持ち、デズモンド・モリスに学んだ動物行動学の博士でもある正真正銘の科学者でありながら(だからこそ?)、科学の枠組みだけでは語れない枠組みの中に、ずんずん足を踏み入れて行く。生命の誕生、進化、精神の発生、など、自然淘汰というだけではとても割り切れない不思議の数々に、従来の科学の枠にとらわれない新しいシステムを見出そうとしているようだ。あるいは、自然現象の奥に意識の働きを感じている、と言ってもよいかもしれない。
正統派からは白眼視されながらも、分からないことを避けて通らず、勇気をもって不思議と向かい合う姿は本当に立派だと思う。ただ本書によって紹介され、のちに有名経営コンサルタントのF氏によって有名になった「百匹目の猿」の話がどうやら作り話だったらしいのは残念。めっちゃ面白い本だけれど、こういうことひとつで信憑性はぐぐっと下がっちゃうんだよなあ。

 

2005-10-05 須川邦彦「無人島に生きる十六人」

今から百年ほど前、ハワイ諸島の西端で16人の日本人が乗った小さな帆船が座礁・沈没した。何とか近くの島にたどりついたが、そこは小さな無人島だった。飲み水はなく、食糧もあらかた流されてしまったというひどい状況ではあったが、幸いなことに、乗組員には十分な経験と、海の男としての誇りと、明るい感謝と希望の心が備わっていた。実際彼らは助け合い、工夫することによって、さまざまな困難を見事に乗り越えてゆく。井戸を掘り、見張りのためのやぐらを立て、魚を釣り、ウミガメを飼う。使えるものは何でも使い、できることは何でもして、今日を暮らし、明日を生きる。まさにこういうのを「生きる力」というのだろう。極限的な状況にありながら、無い物ねだりをしてわが身を嘆くこともなく、いつも仲間に感謝し、理性と秩序を保ち続けるとは、まったくなんてみごとなのだろう。歴史の大舞台で華々しく活躍した偉人だけでなく、名もない船乗りたちまでもこれほど立派に生きていた時代があったとは、まことに気持ちのよい驚きだった。

 

2005-10-04  ジャン・ジグレール「世界の半分が飢えるのはなぜ?」

貧困や飢餓は、遠い国のできごとだけれども、われわれとまったく関係がないわけではない。たとえば十年ほど前に、コメが不作でタイ米を輸入したことがあったが、そのためにコメの価格が跳ね上り、セネガルなどのアフリカ諸国は十分に輸入することができなかったのだという。知らず知らずのうちに、われわれもまた、彼らの飢えに荷担していたのだ。
さて、本書はジグレール教授が飢餓の現実を息子に語る、という形で書かれているが、子どもに向けたとは思えないほど、ごまかしがない。海外からの援助物資は政治家や官僚たちに横領されて、飢えた人には届かない。役人が、国家予算の70パーセントを自分たちの給料にしてしまっている国もある。穀物がいくら余っていても食べられるのはお金のある者だけで、今や穀物というものは、人が飢えを凌ぐためではなく、とてつもない金持ちがさらに富を得るための手段として使われている。そんなやりきれない現実を見せつけられると、飢餓という問題は、同情すべきものでも悲しむべきものでもなく、怒りをもって立ち上がるべきものだということが分かってくる。自由経済という美しい名を持つコイツは、勝てない側から見てみると、とんでもなく貪欲で無慈悲で冷酷なヤツだった。

 

2005-10-03  山西雅子「俳句で楽しく文語文法」

口語文法は知らなくてもちーとも不自由しないが、文語は文法を知らないと正しく読むことができない。だから高校に入るとしっかり教えられるわけだが、残念ながらきちんとマスターできる人は少ない。活用表は覚えても、実際の解釈で使えないことが多いのだ。 さて本書は、その有用だがややこしい文語文法を、俳句を使って勉強しようという本である。もともと文語文法は平安時代の用法を標準としているため、近代の俳句を題材にして教えられることはほとんどない。しかしこうしてまとめられたものを見てみると、短くて暗誦しやすいだけでなく、映像的にもイメージしやすいものが多いから、俳句はまさに素材としてはうってつけだとよく分かる。読者としてじっさいに俳句を作る人を想定しているために、ふつうの文法の本では扱わない誤用例も載っていて、なかなか便利。ノートを取りつつ、ちょっとずつ読んでみてはいかがだろう。

 

2005-10-02  宮本常一「家郷の訓」

明治の終わりに山陰の貧しい小島に生まれ育った著者が、村のくらしや両親から授けられた教えなどについて、こどもの視点のままに書き記した生活誌。本書が書かれたのはまだ戦争中だったせいもあるのか、両親に深く感謝し、村を愛し、国を思う、という気持ちが、いたるところに見られるのが印象的だ。女性が田植えの時期にちょっときれいな着物を着て歩いていたりすると、そのまま田んぼに引き落とされて泥だらけにされてしまった、なんていうエピソードから察しても、さぞ窮屈な暮らしだったろうと思うが、著者によると、「(村の色に染まることは)一見個性をなくするように見えるけれども、それによってむしろ個性が生かされもした」というし、「娯楽は都会人にあっては個々がたのしむことのように考えているけれども、村にあっては自らが個々でないことを意識し、村人として大ぜいと共にあることを意識するにあるのであって、これあるが故にひとり異郷にあっても孤独を感じないで働き得たのである」ともいう。われわれは、ひとりひとりの自由というものをほとんど無前提に価値あるものと思っているが、こういう言葉を読んでみると、はたしてそれは、他人のために陰膳(かげぜん)を供えつづけるような美しい心と引き換えにするほどのものであったのか、と疑わずにはいられなくなってくる。

 

2005-10-01 吉福康郎「格闘技『奥義』の科学」

中国拳法に「寸勁(すんけい)」という技がある。ふつうのパンチは曲げた腕を伸ばして打つが、寸勁は伸ばした腕をわずか3センチ突くだけで相手を吹っ飛ばしてしまう。ほとんど突いていないように見えるのに、受け手のからだは宙に浮く。これを東洋の神秘だとか、不思議なこともあるもんだ、ということではすましてしまうのがわれわれの常だが、本書はそうした格闘技の奥義を、次々に科学の目で分析していく。修練を積んだ格闘家の動きは突きでも蹴りでもさすがに合理的で、ひとつひとつの技がちゃんと物理学の法則に適っているという。その一方で、派手な瓦割りや、仰向けになった腹の上に大きな岩石を置き、それを別の人が思いっきりハンマーを振り下ろして割る、というようなデモンストレーションの「からくり」も見せてくれて楽しい。ただ、ルールが違うため比較はできないとしながらも、相撲取りが一番強いと示唆しているのはどうだろう。なんでもありのルールだったら、K-1王者は曙だってか?