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人の心というものは、善と悪の両面を持っているだけでなく、善悪という単純な割り切りではとても語れない混沌をも抱え込んでいる。本書は著者60年代の代表作のひとつと言われるが、なんと言おうか、ひとつひとつは鮮やかな像を持ちながら、全体としてはどこか現実離れした浮遊感がある。新しい世界を開くべく古代から幾度となく作られてきた自動人形、想像上のグロテスクな人の畸形を描いた図像の数々、男女両性を兼ね備えたアンドロギュヌス、奇想天外な怪物の博物誌、錬金術に始まる実験室で作られる小さな人ホモンクルスへの夢想、などなど、中世のヨーロッパを中心とした古今の異様な図像が次々と並べられるのを眺めるだけで、人間というものが理性をよりどころに歴史を歩んできた、なんてことがただのフィクションであることがよく分かる。むろん、いちばん不思議で、いちばんつかみどころがなく、かつ最高に魅力的なのは図版ではなくエッセーの部分であるが、彼の文章もまた、論理であるよりいっそ音楽に近い。世界の全体性を語ろうとすれば、もっぱらそれはロジックとしての言葉ではなく、象徴による直覚に頼るしかない、というところか。もしかしたらこれは、分かるとか分からないとか、そういう次元で読むべき本ではないのかもしれない。
| 2005-09-29 吉本隆明+小川国夫「宗教論争」 |
このふたりは、30年以上前からたびたび対談をしているが、本書はそのうちの5篇。小川国夫はカトリックで、対する吉本隆明はキリスト教には批判的な関心を持っている人だから、ぶつかるべきところはきちんとぶつかる対談になっている。吉本は「キリストが実在したかどうかは、信仰にとってさほど重要ではない」「その程度の人は当時いっぱいいたんじゃないか」なんていう発言をする一方、オウム事件後の対談では、宗教者としての麻原彰晃の力量を非常に高く評価する。もちろん地下鉄サリン事件については「かつて人類に類例を見ない殺戮行為」として厳しく批判しているが、それにしても、キリストはたまたま担ぎ出されただけだけど、麻原はすごいぜ、とでも言わんばかりの発言に、さすがに小川も色めき立つ。さあ、これほど世間の認識とかけ離れたことを言うからには、吉本にはさぞすごい言い分があるのだろうと思ったが、残念ながら話はそこまで。ここの部分だけは、もっともっと突っ込んだ議論をしてほしかった。印象を好き放題にしゃべるだけなら、そこらのおっちゃんにだってできるんだからさ。
| 2005-09-28 オックスファム・インターナショナル「コーヒー危機」 |
コーヒーは、アフリカの多くの国で基幹産業となっているが、その生産は比較的規模の小さい農家で行われていることが多い。ところがコーヒーの実質価格はここ40年間でなんと75パーセントも下落してしまい、細々と栽培を続けるコーヒー農家の人たちは、まともな生活どころか、人として最低の生活すらままならない苦境にあえいでいる。子どもたちは学校にも通えず、医療も受けられず、餓死寸前という家族も多い。貧困のあまり、現金収入の見込める麻薬栽培に手を出す人もいる。そうした一方、ネスレ社などの焙煎業者だけが大きな利益を享受しているという。富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるという傾向は、ここでもひどくなる一方なのだ。そんな中で、じわじわと広がっているのがフェアトレードという運動である。これは公正な貿易をして、生産農家が適正なお金を受け取れるようにしようというものだ。イギリスではとうとうコーヒー市場の2パーセントを占めるまでに成長した。がんばれ、フェアトレード。
| 2005-09-27 永井洋一「スポーツは『よい子』を育てるか」 |
スポーツというものはよいものである。人はスポーツを通じて、体を鍛え、精神を鍛え、協調性を養う。礼儀を身につけ、努力する尊さを覚え、忍耐を学ぶ。大方の人がそのように思っているからこそ、今日も子どもたちは、学校の部活動やサッカークラブやスイミングスクールなどに送り出されているわけだ。本書では長くサッカーの指導に携わってきた著者が、過熱した競技スポーツは、子どもたちに必ずしもよい影響を与えるわけではない、という至極まっとうな指摘をしてくれている。勝つためには手段を選ばない。弱者を蔑む。コーチの指示どおりの動きをただ繰り返し、考えることをしない。スポーツだけに熱中し、まったく勉強しようとしない。礼儀正しいのは内輪の中だけで、外へ出ると傍若無人な振る舞いに及ぶ。レギュラーになれず、疎外されているうちに無力感だけを募らせる…。ここまで言われれば、誰でも子どもにスポーツをさせることの意義をもう一度考え直さなくてはならない、と思うのではないか。スポーツの素晴らしさを信じて疑わない人に勧めたい。
| 2005-09-26 沖浦和光「幻の漂泊民・サンカ」 |
サンカとは、1960年代まであちこちの山や川に天幕をかけ漂泊しながら暮らしていた人たちのことである。それほど昔の話ではないのに、彼らがどこから来たのか、どういう暮らしをしていたのか、ほとんど何も分かっていない。気に留められず、記録されないことはこれほど早く忘れられてしまうものなのだ。そして実態がほとんど知られていないことをよいことに、戦前には猟奇的な山窩小説が濫作され、サンカといえばサルのように野山を駆け、窮すればどんな凶悪なことでもしかねない無産無宿の異能者集団、というようなイメージが作られてしまった。実際のサンカは柳田國男が追い求めた山人とも違い、いわゆる被差別民とも違う。川魚を採り、箕やホウキを作っては里の人たちに売っていたのだから、ことさらに人目を避け隠れて生きようとしていたわけでもない。そんなサンカの悲惨な暮らしの中に、誰からも支配されない伸びやかさを想像してしまうのはあまりに甘い考えだろうか。
糸井重里を聞き手に、構えず語った世間ばなし的な感想の数々。すっかり肩の力が抜けているせいか、「〜せねばならない」というような言い方で正義正論を説いたりしないのが気持ちいい。彼の行動基準というのがなかなかよくて、自分で自分のことをこの程度のならできると評価しているその自己評価よりも下のことだったらなんでもやっていい、と考えているのだそうだ。自分を実際以上に偉くみせようというのは駄目、ということである。「どんな仕事でも、とにかく毎日、十年やったらモノになる」というのは、彼がこの本でしているほとんど唯一役に立つ提言だが、それも、「十年以上やった者ならいくら思い込みをしたところで、自己評価はあんまり狂わないから」でもある。望んでも仕方がないことを望み飢え渇くよりも、手持ちのもので普通にやればよい、という諦観は、「友だちなんて普通はゼロ」だとか、「(ユーモアが欠けていると言われるが、)自分の思考方法の中で僕自身にとっては必要ないと思っている」とか「情報は新聞でだいたい間に合う」などという発言にも表れている。ひと昔前のむずかしーい本からはうかがい知れない一面が垣間見られて、最後まで飽きなかった。
| 2005-09-24 永江朗「不良のための読書術」 |
まずタイトルがよい。どんな人でもどこか不良の気分は持っているものだろう。少し変わっている、というのは平凡な人にありがちな自己宣明だが、そこを突かれて思わず買ってしまった。ブックオフで百円だけど。
意外にと言おうか、やはりと言おうか、いたって中身はまともな本。人はほうっておくと、ついついマジメなよい子になってしまう、だから本を読んで不良になろう、という提言から始まり、本は別に通読しなくてもよい、好きなところを好きなように読めばよい、という読書術に続く。一年に七万点もの本が出され、大型書店が各地にばんばん作られているわりに、あまり内情が知られていない出版業界のいろいろが手際よく紹介されていて楽しいし、「常備カードが入っている本は売れても必ず補充してくれるからあわてて買わなくてもよい」などというアドバイスは役に立つ。出版社、取次、書店だけでなく、古本屋や図書館の使い方まで触れてあるのもよい。不良とも読書術とも関係ないが、出版業界ガイドとして十分楽しめる。
著者は千葉大学の名誉教授。歴史は専門外だが、過去五百年間の白人による暴虐にして悪辣にして陰惨にして無慈悲な侵略の例を挙げ、非白人に対する不正と搾取、虐待と殺戮が西欧社会の繁栄を支えてきたという事実を憤激に身を震わせるようにして書きつづっている。スペイン・ポルトガルによるアメリカ大陸の征服、イギリス・オランダによる植民地支配、そしてアメリカ・ロシアの領土拡大と、改めて列記されるといずれ劣らぬおぞましさだ。ときに白人憎しの気持ちが先走って、何でもかんでも彼らのせいにしてしまう傾向はあるが、そうしたアクの強さを受け容れて読めばとても面白い本。われわれの馴染んだ西欧中心の歴史ではほとんど触れられていないことばかりだが、これも歴史というものがもっぱら勝者のためにあるもので、勝者に都合の悪い部分は隠蔽され改竄されるものだと思えば合点がいく。著者の政治的な立場は非常にはっきりしているので、話がスペインやポルトガルの悪行にとどまっているうちはともかく、戦争責任や靖国問題などについての論述に入るあたりで、朝日や岩波を愛読する人にはもう耐えられないだろう。歴史を中立的に語るのは、難しい。
地獄の思想というものが形成されてきた歴史と、それが日本の文学にどのように投影されているか、というテーマをむんむんするような熱意でもって描いた本。梅原猛のデビュー作。「よいことをした人は死ねば極楽に行って、悪いことをした人は地獄に落ちる」というのは、まあとりあえず仏教国日本においては常識に属することだが、実はこうした考え方は、お釈迦様の教えとは何の関係もないところから湧いてきたものなんだそうだ。釈迦の時代にはすでに地獄というものは信じられていたが、釈迦自身は因果というものの連鎖を、もっぱらこの現世の中でだけとらえていたという。たしかに、人生は苦であり苦は欲望から生まれる、という釈迦の思想を来世まで引き延ばせば、欲望の行き着く先はすなわち地獄である、という道筋は容易につけられるが、それは釈迦自身の説くところではなかった。もともと仏教というのはある意味ズボラなところがあって、法華経やら華厳経やら大日経なんていう有名どころのお経でさえ、釈迦の入滅後5百年も経ってから創作されたものだというのだから、いかに釈迦と仏教が遠いものか察せられるというものだ。イエスの思想をねじまげねじまげ出来上がってきたキリスト教といい勝負ってとこか。
「声に出して読みたい日本語」などよりも、ずっと早く名文を朗唱する効用を説いた本。それもたとえば立ち机を使うことで「体を動かして全身から声を出す」ことを勧めてもいて、そういう点でもかの大ベストセラーと比べて見劣りするものではない。頭で読むよりまず声と体で読んでいく、という方法は一見遠回りのように思えるが、言葉の音とリズムが心に浸透していくその深さは、机に向かうだけの「効率のよい学習」などは比較にならない。子供たちが素読を学ぶとき、意味がほとんど説明されないために、たしかに理性はつんぼさじきに置かれるが、長じてそのことばの意味に触れるとき、一気に命が吹き込まれるような感覚を持つらしい。本書が扱うのは主として漢文の素読だが、日本の古典も、外国語も、聖書のギリシャ語も、宮沢賢治もルビつきの原文で登場する。実践の方法も具体的で、その気になれば誰にでも始められそうだ。湯川秀樹、貝塚茂樹兄弟の例を挙げるまでもなく、日本人の知性・教養というものは、伝統的にこうした方法で鍛えられてきたことを、もういちど思い出すべきだろう。
| 2005-09-20 ラス・カサス「インディオスの破壊についての簡潔な報告」 |
手もとの世界史の教科書には、新大陸の発見のあと「まずコルテスがメキシコを征服し、ついでピサロがインカ帝国をほろぼした」なんて簡単に書いてあるが、彼らの行った残虐行為は想像を絶している。誰が一太刀で体を真っ二つにできるか賭をしたり、赤ん坊を岩に叩きつけて遊んだり、倒れた奴隷の鎖をいちいちはずすのが面倒だからと首をはねたり、犬のエサとしてインディオを連れて歩いたりという、信じられないおぞましさである。本書はそうした残忍な行為を目の当たりにしたスペインの聖職者が、国王に宛てて提出した報告書だ。インディオの魂の救済をめざした彼にとって、キリストの名をかたりながら金銀財宝の収奪に狂奔し、人の命を平然と踏みつける同胞が許し難かったのだろう。インディオたちは最初、キリスト教徒たちを天から来た人々だと思った。彼らになけなしの食糧を分け与えたりもした。そんなインディオたちの無垢な心を思うと、スペイン人の身の毛もよだつ残忍さが際だつ。450年以上前に書かれた本なのに、とても平静な気持ちで読むことはできない。
| 2005-09-19 小田忠市郎「モノでまなぶ世界地理」 |
愛知万博をきっかけに地球環境について考えるようになった、という声はついぞ耳にしたことはないが、会場でいろいろな国の人を見たりいろいろな物産品を目にしたりしているうちに、なんだかその国に親しみを持つようになった、という人は多いのではないだろうか。国際理解というものは、案外ベルギーワッフルがうまかったからとか、トルコアイスがうまかったからとか、そんな他愛ないことから始まるものなのかもしれない。
本書は世界の国を紹介するのに、教科書的に国の概要を述べたりせず、ただその国にちなむモノをめぐるお話をする、というスタイルで編まれている。必ずしもその国を代表するモノが選ばれているわけではないのがまた面白い。インドのルピー紙幣には金額を14の言語で印刷してある、というような比較的まともなもの以外に、ドイツのトイレットペーパーは紙が固くて泣かされるとか、ベトナムの民族衣装アオザイは、オーダーメイドで高価な上に少し体形が変わったら着られなくなってしまうとか、そんな話も満載だ。たまには怒りや憎しみを忘れ、親しみを持って世界を見よう。
| 2005-09-18 清水芳見「イスラームを知ろう」 |
岩波ジュニア新書。これもまた、イスラームについての歴史や教えの内容にはじまって、普通に生きるムスリムの暮らしが、実に分かりやすくまとめてある。一日に5回礼拝をするとか、豚肉や酒を口にしないとか、日中いっさい飲食をしない断食月があるなどの比較的よく知られていることから、結婚や誕生の祝いや、死者の弔いの仕方まで、実際にムスリムに交じって生活をしていた人ならではのていねいな解説がすばらしい。フランスでイスラームはプロテスタントを抜いてカトリックに次ぐ第2の宗教勢力になっていて、アメリカにも600万人から800万人ものムスリムがいるだなんて、ちっとも知らなかった。日中は水も飲めない断食月が実は楽しい団欒のときで、日没後の食事を当て込んで、町には屋台が出るほどの活気がある、なんて話も意外だった。ふつうのイスラームの人たちは狂信的でも過激でもなく、がちがちの戒律に縛られて、息苦しい暮らしをしている気の毒な人たちでもないことがよく分かった。それにしても、世界に十億人を超える信者を持つ宗教だというわりに、イスラーム関係の本って少ないよなあ。
| 2005-09-17 後藤明「イスラーム歴史物語」 |
なんだかんだと言っても、われわれのいう「世界史」とは「西洋史」のことであり、世界の人々とは白人のキリスト教徒のことである。そういう歴史観・世界観からすると、ムスリム(イスラム教徒)というのは、どうも得体の知れない怖い連中、という印象を持ってしまいがちだ。ところが歴史を見てみれば、イスラームの諸都市は、同時代のキリスト教国なんぞと比較して、はるかに洗練されていたことが分かる。たとえば十字軍という粗野で残虐なフランク人が聖都エルサレムを蹂躙したころ、イスラームの諸都市は、市長もいなければ市役所も警察も税務署もなく、市民のボランティア活動によって支えられていた。すなわち、金持ちたちがモスクや学校のような施設を建て、それを公共のために提供していたのだ。そこには善意だけでなく、したたかな計算が働いているとはいえ、使い途ひとつ注文できないわれわれの税金と比べても、よほどいい方法ではないか。われわれはみな、さまざまな報道によって刷り込まれた偏見を捨て、もうちょっと彼らに学ぼうという姿勢を持つべきかもしれない。
日本語の乱れを嘆いてみせることにかけては、この人の右に出る人はいない。文字を横書きにする雑誌には書かなかったくらいだから、若いモンのしゃべり方書き方に我慢できるはずがなく、したりげな流行語の氾濫に黙っていられるはずもない。途中引用してあった清水幾太郎の「ひどい拷問でも受けない限り、一生、私は『活性化』という言葉は使わない」という台詞はそのまま江國の気持ちだったろう。平成元年に出た本だから、彼の怒りの矛先は、当時全盛を誇っていたコピーライター(彼に言わせれば"ことばの強姦者”)たちにも向けられているのだが、これがまあ、どういうわけか妙におかしい。いや、真剣に怒っている人をつかまえておかしいというの失礼かもしれないが、彼の文章にはどこか読み手をおかしがらせてしまう余裕が感じられるのだ。この点が、「私の嫌いな十の言葉」の中島義道氏あたりとは対照的である。本書を読みながら、余裕を持ちながら激昂するという至芸を幾度も楽しませてもらった。彼にはもう少し長生きして、今日ネットに氾濫しているすごい日本語の洪水を嘆いてもらいたかったなあ。
文明発祥の地では、どこでも麻薬が使用されていたという。天然に存在するさまざまな薬物のもつ向精神作用を利用することで、人は創造性を拡大し、文明を生み出してきたというのである。そして麻薬や覚醒剤が効くのは、人の脳の中にある快感を生む物質と酷似しているからだ。そう、歴史的にも生理的にも、ヒトは麻薬とともに生きてきたのである。麻薬などとはまったく縁がないと思っていても、事実、脳の中では麻薬物質や覚醒物質が働いていて、われわれの精神活動に決定的な影響を及ぼしている。それは苦難に耐える力や新しい世界を開く創造性を生み出す一方、破壊や暴力を好むどうにもならない性癖を作り出してもいるのだ。人はみな薬物の助けを借りて活動し薬物の作用によって翻弄されている、という人間観は極論に聞こえるかもしれない。しかし自分の理性と正義を信じ、無神経にそれを他人に押し付けて恥じない世潮の中では、いっそこうした謙虚さが求められているのではないか。
| 2005-09-14 リービ英雄「英語で読む万葉集」 |
文字どおり、万葉集の歌と、それを英語に訳した作品を読み比べようという趣向。著者のリービ英雄はアメリカ人であるが、歌の読みの正確さといい、それを解説する言葉の鮮やかさといい、まったく申し分がない。彼の文章の魅力は、力ある歌と出会った驚きや喜びを隠そうとしないところにある。日本人の国文学者であれば、分かっている私が分かっていない読者に教えてあげるというような口調になるところを、彼はいっしょになって、すばらしいよね、と感嘆の声をあげるのだ。そして彼のそんな夢中さがそのままこちらに伝染してきて、いつしか熱っぽい気持ちにさせられてしまう。カジュアルに万葉集をこちらに引き寄せて楽しもうというのではなく、自分から飛鳥の昔にまで踏み込んでいこうとする姿勢も好もしい。万葉の歌の美しさ、力強さだけでなく、現代語訳も、格調高い英語訳も、すべてよい。やっぱり古典にふさわしいのは、さめた正確な批評ではなく、こういう頬を紅潮させるような賛美なんだと思う。美しい写真をちりばめた同じ著者の「Man'yo
Luster」もおすすめ。
山村といえば、不便でそのくせしがらみが多く、文化水準も生活水準も低いかわいそうな地域、という印象を持たれがちである。山村と農村を混同し、平地の広々とした田畑と山あいの狭い棚田を比べるだけならそうも見えるだろう。しかし、山村の生活は、それほど単純なものではない。昔から山村に住む人たちは、田畑を耕すときもあれば、川の魚を捕って売りに出て行くこともあれば、キノコや山菜を採り、トチを拾い鹿やイノシシを撃つこともあるというように、季節ごとの恵みの中で、なかなか満ち足りた生活をしていたのだ。中には林業で大きな富を生んでいたところもある。彼らにとって山は文化的な生活を送るための障害どころか、生活に必要なものをもたらしてくれる豊かさの源でもあったのだ。だから今日、いちど都会に出たものの、老後はふたたびふるさとの山で過ごそうという人たちが存在することも、何ら不思議なことではない、そうだ。なるほどねえ。
源氏物語を原文のまま読むのはほとんど無理である。注釈書と首っ引きでなら読めるかもしれないが、それは普通の意味では読むとは言わない。「かの更級日記の少女のように、息もつかせぬスピードで」ないと、学業成就の喜びこそあれ、小説を読む喜びとはほど遠いからだ。だから源氏はまず現代語訳で読み、それから好きなところを原文で読む、というスタイルがよい、という。本書は源氏物語のダイジェスト的な紹介というよりも、軽めの源氏物語論という感じ。類書は多いが、読みやすさではやはり田辺聖子が一番ではないか。正直に言うと、この人の翻案したなよなよと甘ったるいセリフは好きになれないが、登場人物の評は的確で、むむむと思わされるところが多い。時代背景や紫式部について書いたところも掛け値なしに面白い。本書と合わせ、講演録である「源氏がたり」を読むと、さらに楽しめるだろう。
| 2005-09-11 カール=ハインツ・マレ「首をはねろ!」 |
何年か前に「本当は恐ろしいグリム童話」とかいう何だかねえの本が売れてしまったが、こちらは安心して読めるまともな研究本。グリム兄弟の当時、メルヘンなんてものはまったくたわいない作り話と見なされたものだが、しかし文学とはまったく無関係とされていたからこそ、どんな事柄でも描きこむことができたというのも事実である。たとえばわずか7歳の「雪白ちゃん」が、自分をかまってくれない美しい母親に対していろいろな迫害と復讐を空想したお話など、メルヘン以外のどこに受け皿があっただろう。「意地の悪い母親に迫害され何度も殺されかける美しいわたし。ドアを開けてはいけないよ、と言われていながら、母親が来襲するごとに何度でもドアを開けてしまうわたし。でも平気なの。だってほんとのことじゃないんだもん」というのは、言われてみれば、いかにもばかばかしい幼児的な妄想じゃないか。どうしてこんなお話が世界中のママと子供に受けてきたのか分からない。まあ、これはこれでたしかに面白いんだけどね。
| 2005-09-10 スーザン・ジョージ「なぜ世界の半分が飢えるのか」 |
第三世界の飢餓を、人口増加のせいにしたり旱魃などの天候不順のせいにしたりするのは間違っている。1976年の初版だからデータはさすがにものすごく古いが、この基本的な枠組みは、今日でも大きくは変わっていないだろう。飢餓の問題の根本は、収穫のわりに人口が多すぎるなんてことではなく、飢えて死に行く人を尻目に、世界の穀物の大半が、先進国の家畜の餌に消えているという歪んだ構造にある。世界のどこで作られた食糧であれ、それは自国の飢えている人々のところではなく、お金を持っている人々のところへ送られるようになっているのだ。西側が途上国の農業を近代化しようとした「緑の革命」も、そうした状況に拍車をかけた。たしかに富める者には利益となったが、近代化できない貧しい農民は、かえってすべてを失うことになってしまった。飢餓は避けられない天災などではなく、人の欲によってもたらされている一種の人災である。この人災を食い止めるには、飢えている人を援助するのではなく、彼らを飢えさせている権力そのものに働きかけなければならない。
「第二次世界大戦は平和主義者が起こした戦争である」という衝撃的な戦争論。第一次世界大戦がようやく終わったあと、ヨーロッパ全土は、どんなことがあっても戦争はいやだという厭戦気分に包まれていた。ナチスがベルサイユ条約を踏みにじり、堂々と再軍備を宣言したのは、まさにそうした世潮の中だった。英仏はもちろんこれを叩きたかったし、国際法上も当然派兵が認められる状況だったが、しかし平和を願う世論に押されて身動きを取ることができなかった。ヒトラーはどれほど喜んだだろう。このとき叩かれていたら、ヒトラーなどひとたまりもなかったのだから。こうした歴史を振り返れば、戦争を防ぐために必要なのは平和を願う清い心などではなく、戦争が起こるメカニズムを研究し、戦争よりも合理的で効果的な紛争解決の手段を生み出すしかないことがよく分かる。政治が情緒的に語られがちな今、まさに読み返されるべき一冊。
| 2005-09-08 高田明典「構造主義方法論入門」 |
非常に面白い本である。構造主義というお堅い現代思想の入門書でありながら、説明の仕方が抜群にうまいため、机に向かって線を引き引き読まなくてもすらすら読めて気持ちがよい。著者は科学的な思考について述べているのであり、人生訓を垂れ流すような弛緩した精神とはまったく対極にいるが、どういうわけかこの本を読むと、下手な説教を聞かされるよりもずっと元気が出る。たとえば、冒頭にある「彼女はどうしてこんなに歌が下手なのかしら」という質問は無目的かつ無価値であり、科学は(そして構造主義は)現実を制御するためのものだから、どうして、ではなく「どうやったらうまくなるのかしら」というように質問の形態を変換しなくてはならない、なんていうくだりには、本当に力づけられた。それとは知らず答の出るはずのない質問形式に囚われて、いつまでも気分だけで悩んでしまうのは馬鹿馬鹿しい。いろいろなことで行き詰まってしまったときには、「どうしてうまく行かないんだろう」と気分だけで悩むのはやめて、「どうすればうまく行くだろう」というように、現実を制御する方法を考えることにしようじゃないか。
| 2005-09-07 大石慎三郎+津本陽「米が金・銀を走らせる」 |
当たり前といえば当たり前なのだが、江戸時代というのはそれ以前の時代と比べると比較にならないほど大量の資料があるそうである。そのくせ、何でもないようなことが分からない、というのが面白い。たとえば江戸史の専門家によると、かの有名な大商人の紀伊国屋文左衛門ですら、文献として細かく追えるほどの資料が存在しないため、「たぶんいたんだろうということになっている」のだそうだ。本書は対談なので、それほど深く議論を深めるというものではないが、こうした意外な話の面白さは比類がない。江戸時代の輸送はほとんど陸路ではなく船で行っていたとか、吉宗に重用された大岡越前守は官僚そのもののまったくねちこい性格だったとか、経済の話が中心にはあるものの、江戸史という広大なフィールドを自在に転がっていくような話題の広さがじつに楽しい。歴史というものは、どの戦争で誰が勝ったかということよりも、お金やものを巡る当たり前の暮らしの重なりによって作られてきたのだなあ。
| 2005-09-06 林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」 |
林尹夫(はやしただお)は京都大学で西洋史を専攻していた学生である。英仏独の三カ国語を修めた大変な秀才ではあったが、世に出ることもなくその生涯を終えた。終戦を目前にした1945年7月に四国沖で撃墜されたのだ。彼の学問を愛する姿勢は、航空兵となってからも最後まで変わらなかった。そのことは、訓練中も書物を離さず、最後の飛行にあたっては、もはや軍刀は不用だといって軍刀の代わりに平素愛読していた書物をトランクに詰めて行った、と伝えられていることからも分かる。本書は彼の日記を編んだ遺稿集である。十代の頃には彼の優秀さに嫉妬を覚え、二十代のときには彼の真摯さに圧倒されたものだが、今読み返してみても、寸暇を惜しんで本を読み、外国語と歴史を休むことなく学び続け、自己を省みてはとことん考え抜く、という姿勢の厳しさには息が詰まるようだ。これほど優秀で、これほど勉強が好きで、これほど濃密な時間を生きた人間のいのちを、いとも簡単に掃き捨ててしまうとは、戦争というのは何と愚かなものだろう。
| 2005-09-05 志村史夫「古代日本の超技術」 |
法隆寺の非常に進んだ技術については“最後の棟梁”西岡常一の著作などを通じてよく知られるようになったが、何もすごいのは建築技術だけではない。現代の鉄クギは十年も経つと赤サビでボロボロになるが、飛鳥時代のクギはこれまで千三百年も朽ちずにいて、さらに「あと千年もつ」そうである。砂鉄とタタラを使うことで、鉄鉱石を溶鉱炉で溶かすという現代の技術では到底えられない高純度の鉄を取り出すことができたのだ。もちろんそれ以外にもさまざまな要因が重なり合っているのだが、古代の技術がこの手の工業技術においてすら現代を凌駕しているというのは驚くべきことである。本書はこうした古代の技術にただ感心するだけでなく、たとえばクギの錆びない秘密を科学的に解明しようとしているところが面白い。ほかにも四千年前、ヒスイに孔をあけるにはどういう方法をとったか、なんていう話も印象的だ。現代の技術というのは95点のモノを百万個作ることは得意でも、本当に凄いものをたったひとつ作ることはできなくなっているのかも知れない、なんてことを思ってしまった。
キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の甥にあたるユリアヌスは、皇位はおろか政治にも栄達にもまったく関心がなかった。彼は哲学と修辞学と古典を愛し、ただ真実なものを求めてやまない愚直な書生のような心を生涯持ちつづけた人だった。思いがけず副帝として困難な戦争を指揮し、行政を改革することになっても、学問によって物事の本質を把握する力をわがものとしていた彼は、ほとんど政治や軍事の訓練を受けていなかったにもかかわらず、抜群の成果を上げて人望を集めるのだった。しかし、ほんとうに人々を惹きつけてやまなかった彼の魅力の源泉は、私心なく理想を追い求める澄んだ精神にあった。そして、まさにその純粋さゆえに、すべてを神に委ねるとして自らの知性と節制を放棄したようなキリスト教という野蛮な宗教の蔓延を見過ごすことができなかったのだ。あれほど高潔で知的で敬虔な精神を持ち、ローマ帝国のために瞠目すべき働きをなし遂げたこの人を、ただ「背教者」というレッテルひとつで一顧だにしなくなってしまうとは、歴史というのは何と苛酷なものだろう。
| 2005-09-03 河合隼雄+谷川俊太郎「魂にメスはいらない」 |
フロイトの精神分析だろうがユングの分析心理学だろうが、人の心を分かったように語る学問には、少なからぬ反感を感じていた。人が死にたいくらいの苦しい思いをしているのに、それを簡単に分類整理して、分かったような顔をしてほしくないじゃないか。凡百の医者による実際の治療現場はそんなモンだろうと今でも疑ってはいるが、少なくとも河合隼雄の治療はそうではないようだ。治療がうまくいくかどうかは、患者のサインを感じ取れるかどうか、受け止められるかどうかにかかっている、なんて言ってもらえると、何だかうれしくなってくる。自分が相手の世界に呑み込まれそうになるギリギリのところまで近づいて、患者の治るきっかけを引き出そうとする姿勢には、思わず映画「エクソシスト」の神父の姿と重ね合わせてしまったくらいだ。表層に浮かんだ自我を突きぬけ、深く相手の自己に触れようとする行為は、冷たく醒めた分析どころか、相手を助けるために底も見えない深い淵に飛び込むようなものだと知った。谷川俊太郎が妙な対抗意識を持たず、聞き手に徹しているのもいい感じ。
| 2005-09-02 安達正勝「死刑執行人サンソン」 |
副題に「国王ルイ16世の首を刎ねた男」とあるとおり、フランス革命のさなかのパリで死刑執行人を務めたシャルルーアンリ・サンソンの評伝である。創作ではなく、彼の日記や親族の書き残した記録をもとに構成されているので、ありきたりなフランス革命史とはまったく違った側面が垣間見られて興味深い。サンソンが従事する刑吏という仕事は、正義の実現のため、ただ命令にしたがって職務を遂行する立場であったが、民衆の面前で直接手を汚すものである以上、人々の厳しい偏見を避けることはできなかった。だからサンソンは誰からも後ろ指をさされないよう厳しく自分を律したが、彼の悲哀の発するところはまさにそうした誠実さであったと言ってよい。神を信じ、国王を敬慕し、処刑される人の苦しみを思いやる敬虔な心を持ちながら、折りしも吹き荒れた革命というとどめようもない嵐によって、ついには自ら国王の処刑に手を下すことになってしまうのだ。死刑執行人として歴史に名を残しながら、最後まで死刑の廃絶を願っていたこの男の生涯を辿ると、人というものは結局それぞれに与えられた運命を生きるしかない存在なのだと思わないではいられない。
鬼を生み出した昔の人の世界観を探る、という本ではない。境界の向こう側から来る怪異を怖れるこちら側の視点だけでなく、鬼の側の視点、いわば人間的な悲哀や孤独にも触れようとする姿勢が、この本の豊かで深い味わいを生んでいる。百鬼夜行のように群集する鬼は天台密教の汎仏思想によるもので、祀られなかった死者の心の飢えが怨みや憤りによって鬼と化すのであれば、本来鬼は孤独でありときに孤高である、という。こうした鬼の立場に添ったとらえ方は、著者が古典ばかりでなく、能に深い素養を持つことにも関係しているのだろう。鬼はひたすら荒ぶるだけの者ではなく、破滅者としての自覚に沈む哀れな存在でもある。そして同じことを裏返して言えば、ただ鬱屈した悲しむ者などではなく、何ら心を動かさないで人の命を奪う超人的で非情な力の象徴でもある。こうした善悪で割り切れない面を持つからこそ、鬼はこれほど長い間、人の心をとらえ続けてきたんだよなあ
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