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フランス文学者辰野隆が、あるいは遠くから見つめ、あるいは親しく交わった人たちの思い出を綴る。魅力あふれる人たちと同じ時代を過ごせた嬉しさが端々からにじみ出ていて気持ちがいい。露伴、漱石、鴎外、寺田寅彦を描いた文章がとりわけ懐かしく味わい深い。ひとりひとりに向けられるのは、分析したり批評したりする冷たい視線ではなく、まず尊敬と感謝である。この手の謙虚さは時代から失われて久しいが、なんとも美しいものだと思う。著名な文学者だけでなく、稀覯本を巡るふたりの蔵書家の友人との交流も楽しい。辰野氏が、欲しけりゃやるよと世界に一冊しかない珍しい本を机に置く。するとひとりが間髪入れずに引ったくり、先を越された方は目を白黒する、なんて話はいかにも子供じみていて楽しい。ある日辰野がこの人に、もし火事が起こって君の蔵書をことごとく焼き尽くしたらどうする、と聞いてみたところ、彼は少しも騒がず答えたそうだ、「必ず発狂してみせる」。
映画を楽しむのに演技経験はいらないし、絵画を味わうために自分で描けなければならないものでもない。楽器が弾けないからといってコンサートに出かけられないということもない。しかし書だけはそういうお手軽なものではなく、どうも素人が見ちゃいけないもののような気がしてしまう。さてこの本は、そんな素人のために書の魅力をいろいろな方向から紹介してくれる入門書。名前しか知らなかった中国と日本の名書家の書跡を眺めるだけでも楽しいし、細部までを正確に模写するための技法やら、行書が先で楷書が後という意外な書体の歴史やら、そういう話も面白い。しかし肝心な鑑賞ということになると、やっぱり難しいんだなあ。どうやら本当の味わいは、自分で書いている人にしか味わえないものなのかもしれない。ま、焼き物でも能でもお茶でもお花でも、日本の伝統芸術ってのは、どれも門外漢には分からないものばっかりなんだけどね。
| 2005-07-29
呉智英「封建主義、その論理と情熱」 |
民主主義を弾劾し封建主義の復権を訴えた封建主義者呉智英のデビュー作。この人の文章のおもしろさはまさに絶品。論旨の意外さ明晰さはもちろん、分かりやすさおかしさともに類を見ない。封建主義を説くというより、民主主義を攻撃することに重点が置かれている。民主主義が生んだものは、たとえば、マンガの中で「亭主関白は日本の伝統的美風だ」と口走る若い漁師であり、意味を知りもしないで「すべからく」なんて書いてしまう知識人であり、「氷がとけたら/春になる」などという子どもの解答をほめそやすマスコミや教育者である。どうやら彼は、分不相応に偉ぶったり大衆に迎合したりするのがとことん嫌いなようだ。こういう主張は書き方によっては嫌みになりかねないが、達意の文章で笑わず読むのはむずかしい。20年以上前の本だから時事ネタはさすがに古くなったが、言葉は今でも新鮮だ。「封建主義者かく語りき」と改題されて、いまだに現役である。
「木を植えた男」という本がある。荒廃した土地を甦らそうと一本ずつ木を植え続けた男の話だ。笹部新太郎もあるいはそういう人だったと言えるかもしれない。ただ彼が桜を植えたのは、国のためとか人のためではない。ただ桜が好きで好きで仕方がなかったからである。まったく彼の生涯は、桜を愛することそのものだった。明治以降日本を覆い尽くしたソメイヨシノなどは桜と認めず、古来からわが国を彩ってきた山桜と里桜、なかでも本当に美しい桜を愛してやまなかった。生涯職に就かず、中傷されても、植えた桜が盗まれ薪にされてしまっても、高速道路の建設によって桜園が全滅しても、なお桜とともに生き続けたのだから、偉人と言うよりいっそ奇矯の人と呼ぶべきかもしれない。決して聖人君子ではなく、周囲との衝突も厭わなかったし、口を開けばぼやきになるようなおっさんだったが、ここまでひとつごとに魅せられ、惜しげもなく生涯をかけてしまう姿は、やはりうつくしいものだと思う。
| 2005-07-27
アンドルー・ワイル「癒す心・治る力」 |
ひとことで言うと健康に関する本だが、毎月驚異の健康法を発見するようなうさん臭い健康雑誌とはまったく対極にある。叙述はきわめて理知的でときとして美しい。本書のスタンスをまとめれば、人間には病気を治そうとする力が備わっているのだから、そうした自然の力を引き出す治療を施すべきだ、ということになろう。これは悪いところは取り除いたり交換したりさえすれば治る、という西洋医学の考えー還元主義ーとはまったく対立するものだ。西洋医学では、たとえば植物から有効成分だけを取り出して薬をつくる。漢方では、まるごと使って服用させる。自然はまだわれわれの知らない力を秘めている、という可能性に思い及べば、どちらが正しい態度かは明らかだろう。余談ではあるが、ワイル博士は心の健康のために定期的に「時事ニュースをいっさい見ない」日をつくる「ニュース断食」を勧めている。これにはまったく同感である。
フラジャイルというのは、こわれやすい、はかないというような意味で、「こわれもの注意」というときのこわれもののことである。本書は、弱さはかなさ不完全さ頼りなさあいまいさ、不具、境界、幼児性、などといった、しっかりしていないもの、はっきりしていないものの魅力についての蘊蓄を集めたよもやま話。こういう言い方は失礼かも知れないが、松岡正剛は見かけも格好いいし、文体も知的だし、ものすごくいろいろなことを知っているのも驚きだが、彼の書くものはいつも何かについての論考というよりも、あるキーワードに関連する膨大な知識を列挙したカタログ、といった印象が強い。まるでネットで次々にリンクをたどるように、どんどん話題が展開(拡散?)していってしまって、どうも芯がつかみにくいのだ。ま、それが魅力といえば魅力で、かれこれ30年近くも読み続けているんだけどさ。
鈴木三重吉、福永武彦などによる子供向けのものも含めて、これまで読んだ中で最高に読みやすい古事記。大胆にも古老の語りというスタイルをとっているのが最大の特徴だ。それでいてもとの古事記の風合いがしっかり残っているのが見事。イザナキ・イザナミの国産みも、天の岩屋の前で笑いさんざめき、踊るアメノウズメにやんやと喝采を送る神々も、なんとも大らかで気持ちよい。古事記というのは、思えばヤマタノオロチを退治したスサノオや出雲の国の大英雄オオクニヌシ、そしてヤマトタケルの物語など、誰もが知っている豪華キャストによる、見どころいっぱいの大スペクタクルなんだよなあ。本書は注釈と解説もすばらしいので、最初に読む古事記としてだけでなく、じっくり読み込むにも最適なテキストだと思う。同じ著者による「古事記講義」を併読すれば、さらに理解が深まるだろう。「出雲神話をたっぷり抱え込んだ古事記は、主流からは外れてしまった歴史書のひとつだった」など、こちらもむむむな話がいっぱいである。
| 2005-07-24
ガルシア=マルケス「予告された殺人の記録」 |
古びた田舎の小さな町で実際に起きた事件をもとにして書かれた作品。どんな隠しごともできないような濃密な空気をたたえた町は、鉄道すら通っていない閉ざされた空間だった。その忌まわしい事件は、町を挙げての華やかな婚礼から一夜が明け、祝祭の興奮がいまだ冷めきらない朝に起こった。その日、サンティアゴ・ナサールが殺されることは、町中の誰もが知っていたし、それを阻止しようとした人も多かった。奇妙な話だが、殺すことを公言していた当人たちも、本気で殺すつもりでありながら、同時に止めてもらいたがっていたようでもあった。しかし小さな偶然が重なるうちに、まるで避けがたい運命に引きずられるかのように、本当にその事件は起こってしまう…。町の人たちが遠巻きにする中での惨劇は理不尽そのものだが、しかしそれはよどんだ共同体が密かに欲していた供犠だったようにも見える。重くもなく、暗くもなく、むしろ懐かしい感じさえする不思議な作品。
| 2005-07-23
ロバート・B・ストーン「あなたの細胞の神秘な力」 |
こういう分野には(も?)疎いので、この本の内容がどの程度信用できるものかまったく分からない。世にいうトンデモ本の一種なのかもしれない。しかし、めっぽう面白い。何でも、細胞というのは体から切り離されても、もとの体に起きることに反応するらしい。口の中から細胞を取り出してその人を何らかの方法で興奮させると、取り出された細胞もいっしょになって激しく反応するのだそうだ。さらには植物もまた人の考えを感じ取ることができるという。葉っぱにウソ発見器を取り付け、「本気で」その植物を引っこ抜こうと考えると針は大きく振れるが、形だけライターの火を近づけてもまったく反応しない、らしい。わたしたちの身体は素朴に思われているのとはずいぶん違ったものだから、常識を外れるような話だからといって、むげに否定することはない。体を構成している細胞の一つひとつが意志を持っている、とまで言われると、さすがに信じちゃいけないような気がするが、いのちってのはいろいろ不思議な働きをするもんだなあ、くらいのことは思ってもいいだろう。頭には警戒心が残っていても、気持ちはどこか信じてしまう。新興宗教にふらふらっとする感じもきっとこんなんだろうなあ。
| 2005-07-22
福岡伸一「もう牛を食べても安心か」 |
実を言うとこの本には何の予備知識もなかったから「狂牛病は怖いんだぞ」とか「政府のばかやろーめ」ってな主張だけを期待して、週刊誌をめくるような軽い気分で読み始めたのだ。ところが何ともまあ、すごいこと。狂牛病がどういう病気でどう広まって、という話題にとどまらず、われわれの体は個物としての実体ではなく分子の淀みであるとか、消化の意義とは他の生き物が持っていた情報を完全に解体するところにあるといった知見に及び、体はそういう絶え間ない情報の解体と再構成によって平衡状態を保っていること、狂牛病はそういう自然の流れを人が乱したところに端を発することなどが、じつに分かりやすく語られる。ほかにも、科学者の短い評伝や、遺伝子組み替え・臓器移植についてのコメントも印象深い。ここまで素晴らしい本なのだから、今でしか通用しないような軽いタイトルを改めて、長く読まれるような売り方をしてほしいと思う。
中世ヨーロッパでは、裁判というのは神の裁きをうかがうことに他ならなかった。だからその方法は、熱湯に手を入れさせたり、水の中に投げ込んだりという乱暴なものだったが、神が正義を行うものに力を貸し給うことを前提すれば、これはこれで理にかなった方法と言えなくもない。その点決闘裁判は、文字通り決闘して勝った方が正しいという判定方法であるから、勝敗が神様の力によるものなのか、決闘者の力量によるものなのか判然としないうえ、当事者にかわって金で雇った代理人に闘わせることも認められていたのだから、命を賭けた彼らには悪いが、実にいい加減なものであった。そのくせ男と女の決闘では、男の方が腰まで地面に埋められるなどのハンディをつけたりして、妙に公正が期せられていたのだから、ますますわけが分からない。要は正義だ公正だなんていうのは一種の隠れ蓑で、本音はとにかく殴り合いで白黒をつけたかった、ってことなのかなあ。
作家白洲正子による親しかった人たちの思い出話。彼女の役回りは、たとえて言えば幸田露伴を語り残した幸田文のようなものと言えるだろうか。彼女の筆によって、青山二郎、小林秀雄、白洲次郎らの姿が鮮やかに蘇る。小林秀雄の「美しい<花>がある、<花>の美しさといふ様なものはない」というよく知られたことばも、彼が骨董に惑溺していたときの様子を読んではじめて合点がいった。もとは伯爵家の彼女と父を「地下人(じげびと)」と呼ぶ冷泉家の話に驚き、描いてもいない絵を描いたと思い込む老いた梅原龍三郎の話に胸が震える。深遠な美の世界と、とてつもなく大きな男たちの世界を垣間見る心地がする一冊。
| 2005-07-19
橋爪大三郎「アメリカの行動原理」 |
アメリカって国はどういう国なんだろう、ではなく、アメリカって国は何でああいう風なんだろう、という疑問に答えてくれる本。広大な新大陸に、旧体制の干渉を嫌うピューリタンが入植し、何のしがらみもない中で平等な社会を実現するための法制度、政治制度を整えていったら、ああいう国になるのは当たり前、であるようだ。野球やバスケット、アメフトなどのスポーツが生まれた背景にも、伝統的なスポーツでは出身ごとに得意不得意が出てきてまずい、という考えがあるという。ところで、アメリカにとってはアジアが仲良くまとまってある勢力に一元化されてしまうよりも、適当に揉めていてくれる方が望ましいのだそうだ。自国が大勢力の脅威にさらされることもなく、かつ調整役としての影響力も発揮できるからだ。日中韓の問題だと思っている靖国問題やら領土問題やらも、そういう視点から考えるとまた違って見えてくるよなあ。
小林秀雄の批評は、批評といえるほど厳密なものではないように思う。この本でも、彼は手際よく分析しようとはせず、ただ宣長の書いたものを丁寧にていねいに読み、やがて宣長という人の形が浮かび上がってくるのを待つ、という風である。だからこの本が歴史研究としての批判に耐えうる客観性を持っているかどうかは知らない。しかし、そんなことはそれほど大したことではない。だって小林秀雄は宣長が源氏物語を読む姿勢にならって宣長の著作を読んでいるのだから、われわれもまたそのように小林秀雄を読むのが正しいのだ。それにしても「おほかた人のまことの情といふものは、女童のごとく、未練に愚かなるものなり、男らしく、きっとして、かしこきは、実の情にあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたるものなり」なんて、いいなあ。
青山二郎というのはよく分からない人だ。小林秀雄、白洲正子、宇野千代、河上徹太郎などに大きな影響を与えたことは知られているが、結局何をしたかといえば、美しいものを見て触って一生を過ごした、とでも言うしかないようだ。後世に残る作品があるわけではなく、しかし周囲の人に青山二郎という深々とした、忘れがたい、決定的な経験を残していった。本書はそうした彼の美術や交友についての文章を集めた本だが、どれを読んでも論理的に書かれているとは言い難い。ひとつひとつの文が論理でつながっておらず、そのぶちぶち途切れた間隙を埋めるためには、あたかも焼き物が分かるときのように「感じ」が来なければお手上げというような文章なのだ。そして分かるところはめっぽう面白い。何度か間をおいて読み返すと、前に「感じ」が来なかった文章が分かったりしてまた楽しい。生きた姿だけでなく、文章もまた不思議な人だ。
こいつはひとことで言えば古文の入門書だが、かなり変わった趣向である。というのは、この講義が目指しているのは古典の読解ではなく、「平安時代の物語をつくる」ことなのだ。実際大学の試験では「古文で歌物語を作れ」なんていうとんでもない問題が出されていて、そんなヘビーな問題に学生がちゃーんと答案を書いてくるのである。いや、まったくプロットも表現も立派なものだ。「花橘の香あはれにうち匂ひ、葉の緑いと深き日、男そぞろに山に入り歩むとて」なんてさ。続いて先生の添削を読むとこれまたぐっとよくなっていて、もう感心するばかり。なるほど、読んでいるだけじゃ細かい言葉の使い分けなんて気づかないもんなあ。書いてはじめて分かることは思いのほか多いだろう。古文の勉強には、うーむこういうやりかたがあったのか。
もう何ヶ月も前のことだが、新聞に上田閑照氏の「殺生と不殺生」と題する随筆が載っていた。いのちというテーマにもかかわらず、いささかも感傷を含まない凛とした文章だった。本書も哲学の本でありながら端正で美しい。そうとう難しいことを語っているが、表現が的確な上に論理に飛躍がないから、ていねいに読みさえすればかなりの部分が理解できてしまう。「私とは何か」という問いに対して、筆者は「私は、私ならずして、私である」と答えるのだが、何とこれがちゃんと分かるのだ。驚くべき文章力である。ついでながら、そうした「私」のありかたの実例として取り上げた尾崎放哉や山頭火についての論評がまた素晴らしい。遠くから観察するのではなく、その場に居合わせて共感しているような趣なのだ。美しさと精緻さをそなえたみごとな一冊だと思う。
| 2005-07-14
浜本隆志「魔女とカルトのドイツ史」 |
ドイツの中世史を眺めてみると、人類史上最大の悪夢であるヒトラー・カルトにつながるような集団妄想が、そこかしこに散見されるのが分かる。ナチスの狂気はその規模こそ未曾有だったとはいえ、歴史的には唯一無二の特異なものとは言えないようだ。13世紀にはワルド派に対する凄惨な異端狩りが行われたし、2万人の子どもたちが無謀にもエルサレムを目指した「子ども十字軍」の悲劇もあった。14世紀にペストが大流行した折の「ユダヤ人大虐殺」や16世紀から17世紀にかけて猖獗を極めた「魔女裁判」などもあった。本書は、これらの事件から彼らの「異物を排斥しようとする執念」を読みとるのではなく、秩序を好み理知を尊ぶ彼らがひとたび集団的な妄想を抱いたとき、いかに整然とかつ猛烈な勢いで突き進んでいくか、という面に注目する。個々の史実は類書でも読めるだろうが、これほど分かりやすく大きな流れを見せてくれる本は珍しい。一気に読めて、とても面白かった。
| 2005-07-13
玉田玉秀斎+山田酔神「猿飛佐助」 |
明治末期から大正にかけて全国の悪ガキどもを熱狂させたかの立川文庫の復刻版。全20巻をブックオフで購入。今日読んだのは、幸田文が露伴の目を盗んで読み、取り上げた露伴が「こうでたらめだといっそおもしろい」と評したあの「猿飛佐助」である。面白くないわけがない。当時は良識ある親が眉をひそめるような通俗本でしかなかったのだろうが、今読むとなかなかの名調子である。少し引用してみよう。「パッと姿を消すと同時に、そこら一面真っ暗がりとなり、一つの火の玉、フワリフワリと飛んでくる、佐助は少しも驚かず、持つたる鉄扇にてエイとばかりに背後を払えば、アツと言ったは確かに手応え、暗闇は忽ちもとの白昼となり、姿を現したる五右衛門の顔からは血がタラタラ流れて居る、佐助はニツコとうち笑い…」。こういう本に理屈は不要。ああ、面白かった。
| 2005-07-12
高坂正堯「文明が衰亡するとき」 |
世界を圧するような大繁栄を遂げながら、没落した文明は数多い。本書で主に扱っているのは、巨大な覇権国家ローマ帝国、外交と商業で栄えた通商国家ベネチアである。こうして遠く過ぎ去った歴史をある物語にしたがって概観するってのは、実に分かりやすくて面白い方法だ。ことにテーマが衰亡史となれば、なおさらである。ところで1980年代の初頭に書かれた本書は、アメリカの優越が軍事面でも経済面でも終了したとし、合わせて都市の荒廃、犯罪の増加を挙げて、暗にアメリカの時代の終焉を匂わせている。しかし25年ののち、著者の予想に反してアメリカはますます強く大きくなり、世界で唯一の超大国として君臨するに至った。「自分の力だけで、そして自分の考えだけで、問題を解決しようとするのではなく、多様な価値と方法を認め、他の国々の主張をとり入れつつ、協力することによって、リーダーシップをふるう存在となる可能性がある」と著者は書いたが、うーん、そういう日は本当に来るのだろうか。
動物霊が憑くという話は、世界中にそれこそいくらでも見ることができる。日本の憑き物の特異性は、キツネやらイヌやらといった動物が誰か個人に憑くだけではなく、その家に憑くというところにある。実際キツネモチ、イヌガミスジと呼ばれる家筋は今日でも各地に数多く見られるそうだ。ひとたびその筋の家と見なされたら、それ以上の摩擦を避けるためにはひたすら周りの人と協調し、村の規範を守って暮らして行かなくてはならなくなるし、またそうでない人たちも、誰かの恨みをかって取り憑かれたりしないようにこれまた気を配りながら生きていくことになる。こうして憑き物信仰は、村の秩序を保つという大きな機能を果たすわけだ。キツネ憑きなどというものがほとんど見られなくなって久しいが、憑きもの筋に対する差別だけはいまだに根強く残っているという。レヴィ=ストロースの言葉のとおり、まさに「地獄とは他の人たちのこと」であるらしい。
魚の生態を紹介する本は何冊か読んだことがあるが、水族館の本というのは初めてだった。巨大な水槽を可能にしたアクリルガラスの加工技術、透明な水をつくり出す濾過の技術ってな話題も面白かったが、やはり水族館で飼育している動物に関する話がいい。動物をどう捕獲してどのように運ぶか。エサはどうするのか。ピラニアやデンキウナギの水槽はどうやって掃除するのか、なんていう楽しいネタが満載である。そうそう、本筋とは関係ないが、以前サンシャイン国際水族館が南米でイロワケイルカを捕獲して、給油のためにアメリカに立ち寄ったら、いろいろ難癖をつけられたあげく取り上げられちゃったんだって。「アメリカ人にはイルカを飼う資格と理性があるが、日本人にはそれがない」んだとさ。あれれ「日米関係は戦後最良」じゃなかったっけ。
白川静の文章は非常に密度が高い。ていねいに線を引き引き読まないと大事なところを読み逃がしてしまうことが多い。この本は対談だから、そういう緊張感とは無縁である。それに聞き手が梅原猛とあって、古代の中国と日本の共通しているところがうまくあぶり出されてとても面白い。詩経と万葉では千数百年の懸隔があるけれど、社会史的な状況が共通しているために似たような性格を持っているとか、さまざまな習俗を調べると、殷と縄文がつながり周と弥生がつながるようだ、なんて話はほかではなかなか読めないのではないか。白川静という人は、おそろしいほどの該博ぶりだけでなく、水を向けられても当てずっぽうの推測はしないという節度がまた素晴らしい。本書の唯一の難点は、編集者が目立ちたがりで黒子に徹しきれていないことか。
| 2005-07-08
的場昭弘「マルクスだったらこう考える」 |
資本主義よりも社会主義の方が大きな富を生み出しうるシステムだと主張する人は今日ではほとんどいない。マルクスを再検討するという試みもないわけではないが、それは主として哲学という面からの読み直しであるように思う。本書は、そうした潮流に棹さすことなく、グローバリズムが世界を覆っている今こそ世界規模の運動を展開すべきだ、とまっすぐに主張している。語り口はきわめて穏やかだけれど、これは「革命」のすすめである。現実的なことを言えば、いくら時代が閉塞しているとは言っても、今日の日本にあって、生活の基盤をなげうってまで平等な世界を望む人の割合など、限りなくゼロに近いだろう。しかし資本主義が欲望の連鎖によってのみ成り立っていることを思うと、自分の栄達やお金儲けのためでなく、人類の理想のために生きたいと考える人が出てくるのも、また自然な流れなのかもしれない。
実をいうと、理性で世界をコントロールしたいという熱っぽさに何だか惹かれてしまうところもあるのだが、これも昔を懐かしんでばかりいるオヤジの悪い癖なのかね。
タイトルからは、山海経などに登場するヘンテコな化け物をカタログ的に紹介する本のように思われがちだが、妖怪というより、聖獣とか幻獣とでも言うべきものが話題の中心である。中でも龍がどのように生まれたかを追っていく過程がとりわけスリリングだ。従来の学説にとらわれず、「幼児のような疑問」を晴らすべく、証拠をそろえて推理していく姿勢がすばらしい。渦巻文から龍文ができ、そこにだんだん細部が付け加えられてわれわれの知っているような龍が出来上がった、という斬新な指摘にはなるほど説得力がある。それにしても、伝播したのか、それぞれが独自に思いついたのかはともかくとして、角を生やした聖獣やら、わが尾を食らうウロボロスやら、大地を支える大亀やら、世界のあちこちの人たちが、よく似た話を伝えているのは面白いなあ。
| 2005-07-06
アーサー・ケストラー「機械の中の幽霊」 |
映画「アイ、ロボット」を見ていたら「機械の中の幽霊」という言葉が出てきて、おやっと思った。これは、人間ってのは、神経とか骨格とか筋肉とか内臓とかそういう部品からできている機械の中に、意識とかいう幽霊みたいなもんを詰めたもの、とする考え方だ。つまり、「アイ、ロボット」が示唆したように、ロボットが意識を持ったら人間ができあがる、というわけだ。こういう風にどんなに複雑なものでも単純な部品の合計でできているものに過ぎず、生命ですらその例外ではない、という「科学的な」考え方を還元主義というが、本書はこの還元主義を激しく批判する。たんなる刺激ー反応で人間を説明しようとし、ネズミの反応を研究していけばやがて人間が分かると言わんばかりの行動主義心理学や、偶然ヘンなのが生まれ、そのヘンなのの中から環境に適合したヤツが残っていくうちに、ほら人間になりましたという正統ダーウィニズムをがんがんやっつける。それにしても、人間は機械の中の幽霊なんかじゃない。部分を合計しても全体にはならない。こんなことは誰でも感じている当たり前のことだと思うが、すると現代の科学は、どこか当たり前じゃないところをさまよっているってこと?
| 2005-07-05
小峯和明「今昔物語集の世界」 |
ここんとこいちばん読んでいるのは岩波ジュニア新書かもしれない。これもその一冊。今昔物語集の入門書としては最高の出来だと思う。門、橋、坂などといった異界との境界に視点を据えて読み解こうというアプローチがまずすばらしい。ちょっと踏み込んだ解説をしてくれるおかげで、都の闇に鬼が棲んでいたころの雰囲気まで伝わってくるようだ。有名な話をただ現代語訳して紹介するだけだったら、ここまで鮮やかなイメージを描き出すことはできなかっただろう。なるほど華やかな王朝文化の時代とはいえ、内裏の外には百鬼がうごめき盗賊が跋扈する闇が広がっていたんだよなあ。単なる怪異譚の寄せ集めではない大きな物語を見せてもらった。
| 2005-07-04
内田樹+釈徹宗「はじめたばかりの浄土真宗」 |
ネット上の往復書簡がもとになっているだけに、くだけた感じが読みやすい。ことに内田樹氏の文章は文体自体がひとつの芸といってもいい。一方の釈氏の語り口はどうも好きになれず、ところどころ飛ばしてしまった。内容よりもまず見た目、というのはどこの世界も同じなのだ。
さてこの本は、「いきなりはじめる浄土真宗」の続きである。浄土真宗というのは異端にそれほど寛容でない宗派なのに、ここではじつに自由な議論が繰り広げられている。ことに善悪に関する話が面白かった。人間は、世界がすでに創造されたあと、世界がすでに分節化されたあとに、世界に到来したものなのだから、わたしたちには霊的な意味での善悪の基準は分からない。だから何よりもまずこの「無能の覚知」が必要なのだ、なんて話がよかったなあ。立ち止まり、考えつつ読みたい一冊。
科挙というのは、隋の時代から20世紀初頭の清の時代まで、千三百年にもわたって続いた中国の官吏登用試験である。明代以前の中国においては、富貴を望む者は官吏になるより道はなかった。広い中国から機会と能力に恵まれた者が唯一ともいえる栄達の道を求めて殺到するのだから、この試験の苛烈さは空前にして絶後だった。本文だけで40万字を越える四書五経をすべて暗記し、その数倍の注釈書を読むだけでなく、自分で詩や文章を作る稽古をしなくてはならない。三日もの間、個室に閉じこめられて行われる試験では、発狂する者や死亡する者まで出ることもあったという。いわば中国では、国家は長く教育を行わず、苛烈な競争試験をもってその代わりにしていたわけだが、そういうことをしている「教育」機関は、今の日本にもまだまだ多いよねー。
岩波ジュニア新書。副題は「歴史における劇薬」。一般にフランス革命は「前半は理想に燃えた正義の革命だったが、後半は流血の恐怖政治へと変質してしまった」と考えられがちだ。しかし著者によれば、そのように途中で路線が変わってしまったわけではない。抗ガン剤がガン細胞とともに正常な細胞をも攻撃するように、古い社会を変革する偉大な作用そのものが恐怖政治の悲惨をもたらしたのだ。著しい効果と引き替えに大きな副作用をともなった革命は、まさに歴史における劇薬だった。近代史に最大の転換をもたらしたこの革命を振り返ると、民主主義の中で自分の正義を通そうとすれば、結局反対する者を暴力的に排除するしかないってことがよく分かる。民主主義は強固な権威に依っていないだけに、なるほど、いつでも恐怖と混乱に陥る危険を孕んでいるんだよなあ。
人間の目が二つあるのは立体視をするためだと言われる。しかし片目をつぶっても、人の姿がペラペラの立て看板のように見えるわけではない。視神経の数は片目だけで百万本という。しかしわれわれが見ている風景は、百万画素のデジカメで撮ったヘナチョコ写真とは比べようもないほど鮮やかだ。人の網膜は真ん中に神経が集まっていて、隅の方には色を感じるセンサーすらないのだという。しかし、視野の隅々までちゃんとカラーで見えている。これらの不思議はみな、見えていないものまで脳が補っている、という事実を示している。目で見ているのではなく、目を通して脳が見ているのだ。ということは、われわれはありのままの世界を見ているのではなく、われわれにはわれわれに見えているようなあり方で世界が現れている、ということになるのだろう。モリヌークス問題はかつて哲学の問題だったが、今は脳科学がそれを引き継いでいるってことか。ものすごく分かりやすく、最高に面白い本。 |