|
見ることのテマトロジーという副題だが、これでは何のこっちゃである。ちょっと小説的なエピソードを絡めながら、わかりやすく哲学を語ってくれる本である。中でも一番おもしろいのが、モリヌークス問題と言われているヤツで、これは要するに「生まれつき目の見えない人が開眼手術を受けて見えるようになったとき、はたして見ただけでサイコロとビー玉を識別できるか」という問題なのだが、答はなーんと「識別できない」のだという。つまり、われわれは形が見えているのではなく、見えている光と色をもとにして、触って覚えた形のイメージを思い起こしているに過ぎない、というのだ。目が見えなかった人は、触った感じと見た感じが結びついていないから「見えない」ってわけだ。すげー。じゃ、近眼の人は、脳が形を思い起こす作業を怠っているから見えないのか、というツッコミが頭をかすめたが、その答はまた改めて調べることにしよう。
| 2005-06-29 ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」
|
歴史の本の面白さは、どういう時代が描かれるかではなく、どういう歴史観で描かれるかにかかっているが、ここで描かれる物語の面白さは抜群である。スペインはインカ帝国を滅ぼしたが、歴史はなぜ、逆にインカ帝国がスペインを滅ぼすという風にはならなかったのか。なぜアフリカの黒人がヨーロッパを支配するというようにはならなかったのか。こうした問題提起だけでもたいへん刺激的だが、その問いに対する答がこれまた鮮やかで、著者の手腕に見とれるばかりである。今日の社会の有り様を決定づけた要因は民族的な優劣などではなく、栽培に適した植物が生えていたか、技術が伝播しやすい地形をしていたか、家畜化しやすい動物が棲んでいたかというような、たまたま与えられた環境の違いだったという。偶然振り分けられたような環境が歴史を必然のように動かしていく、なんとも壮大な一万三千年の物語。
ずっと前、五千円も出してハンス・ヨナス「グノーシスの宗教」を買ったのに、読み切れず沈没したことがある。だから1500円の本書でもって、ちょっと分かったような気分になれたのは気分がよい。グノーシスとは、簡単に言うとキリスト教以前の神秘思想に端を発して、さまざまに分化しつつ中世の異端審問の時代まで生き残り続けた異端思想である。至高の存在としての神と世界と人間を創造したダメな神がいて、至高神が自分が作ったわけでもないダメな人間を救い給うというのが勘所のようだ。キリスト教で言えば最初に「新約聖書」を編集したマルキオンから、ずっと時代は下って異端審問の標的となったカタリ派まで、時間的にも空間的にも実に深甚な影響を与えている思想だから、ずっと気にはなっていたんだよねー。もっとも、ヘルメス思想とか魔術とか錬金術、なんて方向まで追っかけていく気はないんだけど。
| 2005-06-27 種村季弘「ビンゲンのヒルデガルトの世界」
|
ヒルデガルトという女性は、12世紀に活躍した幻視者である。彼女には神から送られた映像をまざまざと見る力が備わっていた。田舎の修道院の中で育ち、ラテン語さえ知らない「無教養な」女性が、この幻視能力を足がかりとして、巨大なカリスマとして変貌していくのは実に不思議な感じがする。彼女の活躍は、やがて医学、薬学をはじめとする博物学的研究や、はては音楽に至るまでの広汎な範囲に及び、各分野に大きな影響力を持つに至る。もう少し時代がずれていたら、尊敬を集めるどころか魔女として葬り去られていたかもしれない。正統だから認められるのではなく、認められたものが正統なのだという変わらぬ事実を思わないではいられない。
| 2005-06-26 K・B・レーダー「死刑物語」
|
古代から現代に至るまでの死刑の歴史を描いた本。決して猟奇趣味ではないが、読むと気分が悪くなる。焚刑だのギロチンだのといった過去のものから、絞首刑、電気椅子などといった今日使われている方法に至るまで、処刑の様子がじつに詳しい。凶悪な犯罪を犯した者には相応の罰を与えなければならない、という言い分はよく耳にするものだが、しかし、実際の処刑を少しでも思い浮かべてみたならば、それがいかに残酷なものかが分かるだろう。絞首しようが電気を流そうが、そして驚くべきことにギロチンにかけようが、人の死というものは一瞬のうちにおとずれるわけではないらしい。そりゃ断頭台の下から自分の胴体を見上げる、という図を思い浮かべるのは悪趣味かもしれないが、死刑の是非を考えるには、そういうリアリティを抜きにして理屈だけで論じても仕方がない気がする。
| 2005-06-25 林克明+大富亮「チェチェンで何が起こっているのか」 |
2002年のモスクワ劇場占拠事件を覚えているだろうか。ロシアの特殊部隊が毒ガスを使って犯人グループを掃討したものの、129名もの人質が犠牲になった事件である。こんな事件を起こしたチェチェン人とは、どういう連中なのか。
チェチェンは北コーカサスに位置する小国である。彼らは帝政以来400年にわたってロシアの軍事侵略に苦しめられ、スターリンの時代には民族ぐるみで辺境の地に強制移住させられて、住民の半数が犠牲になったとも言われている。苦難の歴史は過去のものではなく、今も続くチェチェン戦争では、100万人足らずの人口のうち20万もの人の命が奪われた。そんな非道が行われていながら、われわれはチェチェンについて何も知らない。
| 2005-06-24 石川英輔「大江戸テクノロジー事情」
|
江戸時代のテクノロジーというのは実におもしろい。当時は不定時法を使っていたから、同じ一刻といっても、季節によっても昼と夜とでも長さが違っていたが、驚くべきことに、そういう複雑な時間を計れる時計が、ちゃんと作られていたという。しかしそれだけの技術を持ちながら、その技術を生活の便利のために使おう、という発想はなかったらしい。時計師たちは、精度を上げることよりも美しい時計を作ろうと心を砕いたし、数学者たちは純粋に数の不思議を楽しんで、工業と結びつくことは考えもしなかった。あれほど精緻を極めたからくり人形も、その技術が産業の発展に向けられることはなかった。こういう話は、なんだか愉快だ。
| 2005-06-23 根本順吉+新田次郎「病める地球、ガイアの思想」 |
朝日出版社のレクチュア・ブックスの一冊。副題は「汎気候学講義」。ともに気象台で働いていた二人の対談である。あまりに面白いので、この本をもとにラジオ番組が作られたこともある。「かつてサハラ砂漠は湿潤だった。それが6千年前に高気圧の圏内にすっぽり入ったために、雨が降らなくなってしまった。人々は水を求めてナイル川まで移動した。エジプト文明は彼らを奴隷として利用することによって成立したのだ」などという気候と文明の関係も面白いし、「昭和のはじめ、虹を観測することによって地震を予知し、「明日朝四時伊豆ニ地震有リ」と新聞社に電報を打って見事に的中させた人がいた」なんていう話もたまらない。この本ばかりでなく、魅力のある人たちの対談をずらりと並べたレクチュア・ブックスは本当にすごい企画だった。若い頃には憧れが高じて、朝日出版社の入社試験を受けたこともあったなあ。ぽりぽり。
ふーん、江戸時代の見世物小屋ってこんなにすごかったんだ。籠細工(かございく)という竹で編んだ人形がとくに人気を呼びました、なーんて聞くと、ぜんぜん大したことがないように思えるが、とんでもない。なにしろ見世物小屋といっても奥行き40メートル、小屋の中には小は2メートル、大は8メートルにも達する巨大な英傑の人形が20も並び、見せ物の前では当代きっての話芸の達人が軽妙な口上を述べているというぐあいで、その華やかさ楽しさといったらなかったのだ。百日の会期に数十万人もの人が押し寄せたというのだから、その熱狂は推して知るべしである。ほかにも珍しい動物あり、軽業あり、本物そっくりの生人形(いきにんぎょう)ありで、読むほどに、当時の沸き立つような興奮が伝わってくる。
| 2005-06-21 デイヴィド・ダニエル「ウィリアム・ティンダル」
|
宗教改革といえば、ルターがカトリック教会に対して95ヶ条の抗議文をつきつけたことばかりが有名だが、このとき彼によって聖書がドイツ語に訳されたことも、負けず劣らず重要な意味を持つ。彼の訳業によって、ヨーロッパのキリスト教徒ははじめて自分たちの神の言葉を読むことができるようになったのだ。ウィリアム・ティンダルは、ルターにわずかに遅れて、はじめて聖書を英語に翻訳した人である。彼のみごとな翻訳は、英語そのものを洗練された言語に高め、シェイクスピア以上に英語の形成に影響を与えた、とも言われている。しかし生涯をかけて自国語の聖書を広めた功績によって彼に与えられたのは、こともあろうに異端の烙印と火あぶりの刑だった…。
翻訳は、田川建三。原著の誤りをひとつひとつ正す詳細な訳注が圧巻。ただ訳すだけに終わらせない学者としての良心に打たれる。訳注とあとがきを読むだけでも8400円は惜しくない。
| 2005-06-20 ジョン・クラカワー「荒野へ」
|
世を捨てて山の中に隠棲したい、と思うこと自体は珍しいことではない。しかし、優秀な成績で大学を卒業した若者が、すべての預金を慈善団体に寄付し、車を売り払い、果ては財布の中のお札までを焼き捨てて、まったく無一物となってアラスカの荒野に踏み入っていく、というのは尋常なことではない。それも世を悲観して死に場所を探していたのではなく、むしろ積極的に生きるために、未踏の地を求めて放浪し続けた、というのである。アラスカの大自然を前にして、持っていた地図さえ捨ててしまったというのだから、彼の行動はたしかに愚かだったと言うしかない。しかし何と無垢な愚かさだろう。登山家ジョン・クラカワーによる共感と哀惜に満ちた語り口が胸を打つ。原題は"Into
the Wild"。
若い頃、無謀にも哲学に憧れた時期がある。そのときすぐに気づいたことは、日本人が書いた哲学の本というのが、ほとんど見あたらないということだった。ヨーロッパの思想を紹介した本はたくさんあったが、引用に頼らず、自分で言葉を積み上げながら考え抜こうとしている本とはあまり出会うことができなかった。その中で大森荘蔵は、世界と私、とか、過去・現在・未来、という当たり前の構図をごっそり考え直すという大仕事を、自分の言葉で行おうとした稀有な人だったと思う。もやもやとした像にくっきりした形を与えるたったひとつの言葉を求めるその姿勢には、誰かの学説を紹介し、ところどころ批判してみることで何ごとかを語ったような顔をしている学者とはまったく違った迫力がある。ふだんわれわれは、「見えるってことは、目に入った光が電気信号になって脳に伝わるってことでしょ」なんて片づけているが、こういう本を読み返してみると、網膜に映っている小さな像がはるか向こうに広がって見えている不思議を、もうちょっと考えてもいいような気がしてくる。
深山にすみ、里の人たちとはほとんど交渉を持たずに暮らしていた人々についての伝承や奇譚を集めた本である。かつて天狗の存在が信じられた背景に、彼ら先住異族の<存在>があったことは言うまでもない。柳田国男は本書を最後に山人について語るのをやめてしまうが、ここでは巨大な山男の話、神隠しの話、気の触れた女が山に入ったいくつもの例など、興味深い話が続く。中でもとりわけ印象に残るのは、序文のかわりに残された一文だ。貧しい父親を不憫に思って、口減らしのためにすすんで殺された小さな兄妹の記録である。戸口の前で自分のいのちを差し出すために大きな斧を研ぐふたりに、秋の日がいっぱいに射している。その描写の哀れさ美しさは、一度読めばとうてい忘れられるものではない。
| 2005-06-17 吉野源三郎「君たちはどう生きるか」 |
70年前に書かれた少年のための人生読本。15歳の少年コペル君がさまざまな経験を通して道徳を考え、生産関係に気づき、自分の弱さに打ちひしがれながら、人間的な成長を遂げていく物語。物語といっても、ここで本当に語られているのはストーリーではなく、人としての生き方である。何ごとにもまっすぐ向き合い、とことん考えようとするコペル君も、大人の知恵をもって常に彼を支える叔父さんも、今となっては「ありえない」人になってしまった。一時流行した「なぜ人を殺してはいけないのか」などという不毛な問いを思い出すにつけ、こんなにまっすぐ人としての生き方を語れた時代が羨ましくなってしまう。
| 2005-06-16 池田晶子「14歳からの哲学」
|
きのう取り上げた永井均の本は、考えることを楽しむというような軽いスタンスが身上だったが、対するこちらはずっと熱い。本気でいろいろなことを考え抜こうとする人には、これほどすぐれた入門書はあるまい。哲学を語りながら、冷徹な論理だけでないところがなお好もしい。ゴッホは生活の苦しさなど問題にしていなかった、なぜなら絵を描くのでなければ生活する理由などなかったからだ、なんてしびれるじゃないか。「個性的であるということと、人と違おうとするということとは、まったく逆のことなんだ」というくだりを読んで、自分探しとやらに迷い込んでしまっている人たちに、聞かせてやりたくなった。
| 2005-06-15 永井均「子どものための哲学対話」
|
前著「<子ども>のための哲学」とは違い、この本はどうやら本当の子どもを対象にしているらしい。しかし、子どもたちにはちーと荷が重そうだ。何せこいつは、問いを問いのままぶつけ、子どもにものを考えさせようという恐ろしい目論見の本なのだ。明快な結論=安っぽい道徳を並べた本ではないから、覚悟を決めて向かい合わない限り、どこを読んでも宙ぶらりんの気分にさせられてしまう。正解のインプットとアウトプットだけに明け暮れている「賢い」子どもたちにとって、こういう読書は想定の範囲外だろう。売れに売れた「ソフィーの世界」は哲学ではなく哲学史の本だったが、こいつは読み手の力量次第では、ほんとうに哲学の本になりうる作品だと思う。
中世のヨーロッパにおいて、刑罰というのは犯罪者を罰するためのものというよりは、犯罪によって損なわれた社会秩序をもとに戻すための供犠の儀式だった。その聖なる儀式を執行をする刑吏は、当然のことながら高い地位にあったが、やがて社会の諸相の変化によって、だんだん賤民視されるようになってしまう。賤民として徹底的に差別される刑吏は、しかし一方では、賤業を独占することによって経済的な豊かさを手に入れていく…。本書で紹介される事例の多くは、中世ヨーロッパだけでなく、世界中に見られるものである。たとえば犯罪者を波間に流すという刑罰はヨーロッパだけでなく中国でも行われたし、皮剥ぎなどの仕事が差別につながった歴史は日本でもまったく同じなのだ。社会の成り立ちを通して人というものを考えるための、非常に多くのヒントを含んだ名著。
| 2005-06-13 E・P・エヴァンズ「殺人罪で死刑になった豚」
|
表題から分かるとおり「動物裁判」の本である。動物裁判というのは、動物を人間と同じように裁判にかけ刑を執行することで、中世から19世紀にかけて、ヨーロッパでさかんに行われた。裁きの対象は四つ足の動物だけでなく、イナゴや毛虫やシラミ、さらには謀反の合図に使われた鐘、倒れて人を押しつぶした銅像などにも及んだ。これは冗談でも何でもなく、昆虫を被告にした裁判であってもきちんと弁護人が立てられ、大真面目に弁論がなされたのである。きっとその当時から、これをばかばかしいと思っていた人は多かったろう。しかし神の名のもとに行われる神聖な裁判を誰が非難できただろう。こんな裸の王様ばりの滑稽なことが何百年も続いただなんて、さぞ重苦しい時代だったんだろうなあ。
中国の歴史を食生活の変化によってたどる労作。そもそもこの本を読んだのは、この人と開高健との対談に食人の話がでてきて、それがたいそう面白かったからだ。食人というのは、飢餓の極限的な状況の中で行われるのでなければ、恨みを晴らすのに相手の肝を食うとか、ありがたい聖人様の力に預かろうと遺体を食べてしまうとか、きまって呪術的な意味合いが含まれていると思っていたが、そうではないらしい。本書によれば、唐代以降、趣味嗜好としての食人の例がいくらでもあるという。いや四本足のものは机以外何でも食い、二本足のものは親以外なんでも食うという評は、あながちウソでもないようだ。食人の話は三百数十ページのうち5ページくらいだが、ほかのところはきわめて良質でまともな食物史。軽妙な筆致でぐいぐい読ませる。食べ歩き番組より断然おもしろい。
百人一首はカルタで遊ぶこともあり、学校で暗唱させられることもあって、わが国でぶっちぎりに有名な詞華集である。ところが冷静に見ると、不審な点が少なくない。類歌がやたらと多かったり、さほど有名とは言えない歌人が入っていたり、藤原定家が好んだとも思えない凡庸な歌が選ばれていたりする。たとえば西行からよりによって「かこち顔なるわが涙かな」を採るなんてヘンでしょ。こういう謎に真っ向から挑んだのが本書である。古典の謎解きというと、万葉集が韓国語で読めるだの、聖書には暗号が隠されているだのといったトンデモ本も確かに多いが、これは信じてよい本だと思った。
| 2005-06-10 大野晋「日本語の文法を考える」 |
高校の古文という科目は評判が悪い。理由は明快、つまらないからである。とくに文法というのは今も昔も見事なほどつまらない。で、この本を読むと、つまらない原因の過半は教える側の不勉強にあるのだろうと見当がつく。なにしろこいつは文法の本のくせにやたらと面白いのだ。たとえば推量の助動詞の説明は、むかしの日本人の時間の概念から始まって、ほとんど謎解きのようである。動詞の活用形はこうこうこのような変遷をたどっているから、何百年たったら日本語の活用はこのようになっているだろう、なんてくだりもわくわくする。国語の教師はこの本を読んで、歴史的な言葉を扱うには歴史的な視点が必要だという当たり前のことを学ぶがよろしい。
| 2005-06-09 夏目漱石+金井田英津子「夢十夜」 |
漱石が実際に見た夢を題材に書いたという十話からなる短編集。夢の話だから当たり前だが、実に不思議な感じのする作品だ。文豪の心をおおう深い闇を、ほんの少しのぞいたような心持ちになる。
ところでこの本は、誰もが知っている「夢十夜」ではない。漱石の文章にはもちろん何の手も加えられていないが、版画家金井田英津子の挿画と装丁によって、すっかり新しい作品が生まれかわっているのだ。これはちょうど音楽が、照明や振り付けを加えることでまったく違った様子を見せるのに似ている。どういうわけか、自分の夢を読んでいるような気さえする。
| 2005-06-08 池上彰「そうだったのか!現代史」 |
この人の説明能力は、並はずれている。物事は単純化してしまえばいくらでも分かりやすくなるものだが、それではごまかしにはなっても伝えたことにはならない。その点本書は現代史という込み入ったテーマが、きちんと血の通った文章で分かりやすく整理されていて、実に見事だ。とくにポルポト政権下のカンボジアや、中国の文化大革命、旧ユーゴ紛争あたりの話は実に勉強になった。もし中学校や高校の教科書がこんな文章で書かれていたら、子どもたちの勉強はどんなに楽になるだろう。
身近な、あるいは失われてしまった道具の数々を紹介する本。「うどんげ」とは、ごく稀にうどんに生える毛のことであり、「徒然草」は「とぜんそう」という幻覚作用のある草である。吉田兼好はこの芳香に夢うつつとなりながら作品を書いたのだから、大麻でも吸ってその幻覚下で読まないと真の良さは分からない、という。著者には他に「虫づくし」「もののけづくし」もあるが、くだらなさ、もっともらしさともに、この作品がいちばん。一気に読むと飽きるので、少しずつ読むのが吉。
| 2005-06-06 ロバート・K・G・テンプル「中国の科学と文明」 |
中国というのはすごい国だ。われわれが何となく「進んだ西洋のもの」と思いこんでいる発明・発見の多くは、実は中国でなされていたのだ。F.ベーコンの言葉によって有名になった「紙・火薬・羅針盤」だけでない。17世紀のヨーロッパに農業革命をもたらした鉄製のすきは紀元前6世紀に使われていたし、向かい風でも帆走できる船は1300年たってやっと西洋にもたらされたものだ。円周率を小数十位まで計算したのは西洋人よりも1200年早く、二項係数を求める「パスカルの三角形」ですら、パスカルに先立つこと500年という。これほど進んでいた国がなぜかくも凋落してしまったのか、今度はその秘密を知りたくなった。
索引も含めると千ページにも達する数学の本である。副題に「中学生からの全方位学習法」という。「人類文化の全体的把握を目指した独習書」というだけあって、教育論から歴史(歴代天皇生没年まで載っている)文学、スポーツまで、その書きっぷりは縦横無尽である。「人として大事なことは何でも教えたい」というような姿勢だから、これを不遜だ、独善的だと嫌う人もいるだろうが、そんな批判をものともしない志を感じる。
| 2005-06-04 佐竹昭広「文明開化と民間伝承」 |
明治維新がふつうに生きる人たちにもたらしたものは、新しい時代を迎える浮き立つような希望などではなかった。あらゆるものが変わってしまう不安がさまざまな噂を生み、噂は流言蜚語となって広がった。戸籍の整備は人身売買の準備だと信じられ、異人に売られた者は血を抜かれ膏をとるために火であぶり殺される、とされた。これらの噂が受け入れられ、はるか遠くまで広まってゆく背景には、想像力の共通基盤としての伝承=民話があった、というのが佐竹氏の考察である。きのう取り上げた「逝きし世の面影」と比べると、同じ時代を描いたとは思えないほどの違いに驚く。岩波ライブラリー「酒呑童子異聞」に収録。
文化は継承されるが、文明は滅びる。18世紀初頭から19世紀まで続いた日本の文明は、明治の半ばを過ぎるころには、跡形もなく消え去ってしまった。かつて日本を訪れた外国人は、この国の無垢で開放的で礼儀正しい人たちに接して、みな感嘆の声をあげ、「地上の天国の天真爛漫さ」とまで評したという。たしかにどこの家も開けっ放しで中は丸見え、興を感じた外国人が上がり込んでも怖がることもなく歓待してくれるとなれば、それも当然だろう。好奇の目ではなく、自分達が持ち込んだ「近代文明」によって滅んでいく美しい世界を、惜しみ懐かしむようなかれらの眼差しが印象に残る。
副題は「日本古典を読む楽しみ」。まさに古典を楽しむためのヒントが満載である。なかでも和歌は本来声に出して朗々と歌った、という指摘には、目を開かれる思いがした。たとえば「風吹けば」という一句なら、「かぜーふけばーーーーーーぁあぁ」ってな具合にゆったりと詠んでいく。するとその間に、聞く者の心の中には「風が吹く」というイメージが横溢してくる。そうしておいてまた「峰に分かるる」と来ると、聞く人の心のなかには、京の都の周囲に立ち並ぶ峰峰が想起されたに違いない、なんて言われると、すっきり合点がいくじゃないか。なるほど和歌をささっと黙読するのは、音楽を早回しで聴くようなものなんだなあ。世に古典案内の本は多いが、こういう当たり前のことを教えてくれる本は少ない。
| 2005-06-01 中勘助「ちくま日本文学全集」 |
こどもの頃の懐かしいあれこれを、こどもの心そのままに綴ったような「銀の匙」。奇跡のようにうつくしく静かなこの作品を、これまで何度読み返したろう。
ところが筑摩書房の編んだ本作品集では「銀の匙」と「妹の死」に続いて「犬」が配されている。「銀の匙」の無垢な世界に染まったあとで、どろどろの業を描いた「犬」を読む気分は、違和感というよりいっそ不快感に近い。人の業の深さを描いてみたい気持ちは分かる。岩波文庫とは違うんだぜという編集者の心意気も分かる。でも、中勘助が好きで、その中でもとくに犬が好きってヤツは百億人にひとりだろ。
|