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近所の洋食屋さんが店じまいをすることになった。
店の作りも雰囲気もよく、接客も気持ちよかった。食器の趣味もよかったし、味もよかった。 ああいう店がどうして繁盛しないのか、よく分からない。商売ってのは、難しいものだねえ。
今月は本は買わないつもりだったが、山本夏彦の訃報を聞いてつい一冊。「室内」の若いスタッフに昔語りをするという本で、読むほどにこの数十年に失われたものの大きさを思う。
それにしてもここまで論理的じゃなく、そのくせここまで読ませてしまう文章は、まさに達意のものというほかない。こんな書き手はもう現れないだろう。
長谷川宏「ヘーゲルの歴史意識」。この人ほど難しいことを分かりやすく明晰なことばで語れる人も少ない。漢字で書くところをわざわざひらがなにするなどして、
目で見たときの見やすさまできちんと考えてある。こういうみごとな日本語を前にすると、哲学書の難しさは、実は思想の難しさだけでなく、へたっぴな翻訳によるところが多いということがよく分かる。
まだ読み始めたばかりだが、民衆の立場から権威ある学問に挑みかかる青年ヘーゲルの姿が、かつて革命を夢見た日本の若者と重なって息苦しいくらいだ。しかし、貧しく罪も汚れもない民衆なんてものが仮に存在したとしても、彼らの実感や彼らの理想を小難しい理論で語ることはできない、どこまで行ってもインテリくんが彼らを代弁することはできないのだ、なんて思うと学問や思想ってのはいったい何なのさってカンジがしてくる。
「口語訳古事記」の、まあ素晴らしいこと。正確でこれ以上ないくらい読みやすい訳といい、いきいきとイメージが湧く詳細な注といい、まったく申し分ない。福永武彦の「古事記物語」も一緒に読んではみるが、子供向けの本だけあって、毒を除いていったら味も一緒に抜けちゃったようなカンジ。塾や学校の書くものが、無難なだけでちっとも面白くないのと同じである。同じ子供向けでも、以前に読んだ鈴木三重吉の訳は面白かったのになあ。
読み切れない本が積んであるのは毎度のことだが、どれも読みたい本だから取りあえずがんがん読み飛ばす。
きのう読んだのは「お母さんは勉強を教えないで」。長く塾を主宰してきた人だからこそ書けた本。向かい合わせでいろいろなことを教わったような気分になった。
今日は斉藤孝の「読書力」。これだけのノウハウを惜しげもなくさらして尽きる気配もない。懐の深い人だ。 あ、昨日は晩に林望「文章術の千本ノック」も読んだ。おととい風呂で江国滋「日本語八つ当たり」を軽い本だと油断して一気に読んだらさすがにのぼせた。
積んであるのは、福永武彦「古事記物語」/三浦佑之「口語訳古事記」/西研「大人のための哲学授業」/長谷川宏「同時代人サルトル」/「般若心経」/アガタ・クリストフ「ふたりの証拠」/町田健「まちがいだらけの日本語文法」/土屋恵一郎「能」/石原千秋「大学受験のための小説講義」/池谷裕二・糸井重里「海馬」
。今日はりりさんおすすめのゲーリースナイダー「野性の実践」を注文してしもた。
今月は、これ以上買わずに読むことにする。あたりまえか。
イラクのサダム・フセイン大統領が、「民主的な」信任投票の結果、100%の得票率で信任されたそうだ。有権者約1500万人のうち、投票した1444万5638人の「全員が」信任票を投じたというからすごい。
その昔フィリピンでマルコス大統領が圧倒的な支持率を誇っていた陰には、警官が(つまり国家の主導のもと組織的に)集計前の投票箱を盗み出し、それを取りかえそうする者を射ち殺すなんていう無法な手段が取られていたらしいが、全員が信任しているならそんな必要もない。
こんなすばらしいリーダーを目の敵にするなんて、まったくアメリカという国は、何を考えているんだろう。
北朝鮮に拉致された人たちの帰国を報じる新聞記事を読むが、ちーとも訳が分からない。何を報じているのだ、あなたたちは。
北朝鮮での暮らしぶりがどうの、家族と会えて何を話しただの、そんな話をいくら伝えても仕方がないじゃないか。
ことの本質は明らかである。よその国に侵入して人さらいをするという無法国家があり、その事実を知りつつ取り返す努力もしない酷薄な国家がある。
せっかく日本に帰ってきてもそのまま戻らなければ北朝鮮に残してきた家族が惨殺されるのは明らかだから、しばらく滞在したら「帰国」するしかないというこの異常な話の、いったいどこが涙の感動物語なんだ。
日本政府は、24年もの間彼らを救おうとしなかったばかりか、今度は合意に基づいて、白昼堂々二度目の拉致をさせようとしている。
こんな異常なことを、こんな屈辱的なことを、平然と報道していていいのか。
すごい雨だった。気持ちいいなあ。
いま試験中だから、みんな必死に勉強している。
一生懸命な姿は、やっぱり素晴らしい。
きのう寒いところにいたためか、またまた風邪ぎみ。
クスリを飲むと、眠くてツライ。
平凡だけど、やはり何より健康だよねえ。
岐阜の白川町で毎年行われている「ホワイトリバー・ミュージック・フェスティバル」に5年ぶりに参加。楽しかったっす。
それでもこういうものを本当に楽しもうと思ったら、もっと大まじめに練習しないと駄目だということを、毎度のことながら思い知らされた。せめてギターの弦くらいは替えていかないとなー。
山の上の音楽堂は珍しく晴れ渡り、星がほんとうにきれいだった。
下手な者にも、星は等しく輝くのだ。
悪というのは昔から魅惑に満ちたもので、たとえば文学なんてものは悪を抜いてはまったく成り立たないと言ってもよいだろう。
でも、悪を描いて本当に意味があるのは、たとえばキリスト教的な道徳が生活のすべてをがんじがらめにしているとか、古い共同体の倫理によって自由な精神が圧殺されているとか、そういう状況に限られるのではないか。
悪い/だらしない/汚い/ずるい/意地が悪い/残酷…なんてものは、強固な道徳が確立しているなかの、せいぜいカウンターカルチャーであるべきであって、間違ってもテレビの主役になったりしてはいけない。
何日も前に読んだ、アゴタ・クリストフ「悪童日記」が頭を離れない。
戦時下に生きる双子の「ぼくら」の日記という形式をとった不思議な本だ。
「ぼくら」 は、あらゆる感情を徹底的に制御しつつ、精神と身体と頭脳を絶えず鍛え、そして体験した事実だけを淡々と日記に記録し続ける。感情を抑制しているから、目をそむけたくなることでも構わず淡々と書いてしまう。冷静というのは、ときにもっとも過激な性質なのだと知った。
どこを読んでも実に面白いのだが、しかしひとつ気がついたことがある。
この面白さは、日本のマンガに近いのだ。すごく前なら山岸涼子の「日出ずる処の天子」、かなり前なら大友克洋の「AKIRA」、ちーと前なら浦沢直樹「Monster」に描かれたような、感傷に崩れない怜悧で恐ろしい子供たちとダブるのだ。改めて思うに日本のマンガってのは、その辺の小説よりもずっと、文学なんだよなあ。
高知県の教育委員会が公立学校の先生を対象に、「飲酒運転はやめましょう」というチラシを配ったそうだ。
「お酒を飲むことがいけないのではないのです。車を運転することがいけないのではないのです。お酒を飲んで車を運転することがいけないのです」だって。いやいや、おもろいわ、これ。
風邪をひいてしまったので、午前中は寝て過ごす。風邪薬とプルーンのおかげで元気になったような。
さて、引き続き、キンモクセイのかおりについて考えた。
たしかにあの濃密なむせるような甘い香りを嫌う人がいるのは無理もない。ぼくも遠くから微かに香ってくるのが好きなのであって、キンモクセイに顔を埋めて胸いっぱいに吸い込みたい、なんてことは思わない。
で、子どもたちがこの匂いを称してトイレのようなにおい、というのは、本当にそう思っているのではなくて、このむわっとする、とても自然のものとは思われない、乗り物酔いでも起こしそうな匂いをどう表現してよいか分からないから、手近にある当たらずとも遠からず的な「トイレの芳香剤の臭い」という言い方で代替しているのではないか、と思った。なんのことはない、感じ方ではなく、表現力の問題なのだ。
何でもかんでも今の子どもはダメなんだ、と言い立てるのは大人の悪い癖である。
外を歩いていると、遠くにかおる金木犀が何ともうれしい。
最近の子どもたちはトイレのにおいと呼んで嫌うとも聞く。ホントかねえ。
風邪を引いたのかのどが痛い。ここんところ風呂でアーヴィングの「サイダーハウス・ルール」を読んでいるが、今夜はやめた方がよいかも。
友人にチケットを譲ってもらって、城田じゅんじと坂庭しょうごのライブを見た。うりんこ劇場、チャリで15分という近さである。
このふたりのステージを観るのは高校2年生のとき以来だから、えーとかれこれ23年ぶりか。ナターシャーセブンの頃の曲も、アイリッシュもブルーグラスも、いやあ、よかった、懐かしかった。
客層はやはり大半が40代以上である。狭い客席をぐるりと見回して、あのおじさんもおばさんも、かつては青春の日々を生き、ギターやバンジョーを抱えて歌っていたと思ったら、ちょっと切ないような気持ちがした。
雨で延期になっていた小学校の運動会。
午後から仕事だったので、午前中だけ見物する。暑い。
人の気持ちを傷つけない配慮に満ちた運動会だった。
なにしろ、徒競走がない。
うーん。徒競走くらい、やればいいのに。
足の速い子にとっては数少ない晴れ舞台なんだしさ。
勝敗をつけないのは優しい配慮なのかもしれないけど、
社会の有り様から言えばそれは明らかにごまかしなのだし、
そうやって何とか負けを糊塗しようとすること自体、
とっても勝敗を気にしているようで見苦しい。
肝心なのは差を覆い隠すことではなくて、
一番もいればビリもいるという現実を見せて、
それから何を教えるか、じゃないのか。
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