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むかしイタリア映画に「自転車泥棒」というのがあった。大不況の時代、貧しく誠実な父親が生きるためにやむなく他人の自転車を盗んでしまうという、せつなくて哀しくて美しい映画だった。
きのう、3ヶ月前に盗まれた息子の自転車が見つかった。
近所の歩道橋の下に置き捨ててあったという。
うちのボウズの自転車というものは、冗談のようにちっこい12インチの幼児用のものである。大きさとしては三輪車に近い。
こんなものをわざわざマンションの駐輪場から引っ張り出して盗んでも、実用性など何もない。 明らかに面白がって盗んだのだ。ちっこいくせにいっぱしの格好をした自転車を、仲間で順繰りに乗って騒いだりしたのだろう。
なあ、おもしろかったか。
小さなこどもを泣かせるのがそんなに楽しかったか。
世界に対する明るい信頼を失わせて、ぼんやりと宙を見つめるような悲しい顔をさせるのが、そんなに嬉しかったか。
国語がよくできるのに、「次の中からもっとも適当なものを選べ」という類の問題ではきまって間違える子がいる。
おかしいなあ、と思っていたら、その子はなんと、
「もっともテキトーなもの」を選んでいたのだった。いやはや。
漱石の「三四郎」とテリー・ケイ「白い犬とワルツを」、読了。
三四郎は百年前の作品だけあって、汽車の窓から空になった弁当の折を放り投げたり、破った招待状を展覧会場の床に捨てたりと、まったく環境に配慮していないところが妙に印象に残る。ゴミを片づけるのは身分の低い者の仕事だから、彼らの世界とはきっと関係ないのだろうなあ。
漱石の作品はこれに限らず教育のない者や田舎者に対する侮蔑がいつも自然ににじんでいて、明治という時代の一端を垣間見られて面白いって言うか、それ以外は面白くないっていうか。それでも繰り返し読んでいるんだから不思議。
「白い犬とワルツを」は、映画の「ストレイト・ストーリー」をもう一回観たような気分。全編、風呂の中で読んだから、本はもうふにふに。
使いのこした花火をやろうということになって、子どもたちを連れて近くの公園に行った。少しばかりの花火に喜ぶ姿を追ううちに、夏の名残を見ているような心地がした。
そこに自転車にアルミ缶をいっぱい積んだホームレスのおじさんがやってきた。おじさんは向こうのベンチにしばらく座っていたが、やがて立ち上がってぼくのところに歩いてくると、「これあげるわ。わしはもうひとつ持っとるで」と言って、自転車に付ける反射灯のようなものをくれた。スイッチを入れると赤く点滅しながらくるくる回る格好いいヤツだ。「夜歩くとき目立つでな」。ぼくはありがとうとお礼を言った。おじさんは、いいんだ、というように右手をぱたぱたと振った。
すごい記事を見た!
離婚した女性が娘の養育費として月150万ドル要求し、裁判所はこの訴えを受け毎月5万ドル(600万円)支払うことを命じた、というのだ。
よそのウチのことだからどうでもよいと言えばどうでもよいのだけれど、 4歳の子どもを養うのに食費がひと月に140万円、服代が47万円「必要」というのはすごい神経だなあ。140万円分も食べるとは、察するによほど巨大な子なんだろうが、養育するのに毎月1億8千万円払ってくれとはまあ、なんとも雄大な話ではある。
さらに記事をよく読むと、このお嬢様は、養育費を請求している当人が、結婚前の交際期間中にほかの男性との間にもうけた子だというからたまらない。笑っちゃうね、ここまで来ると。
この手の話を読むと、ラディカルフェミニズムの「結婚は人間性を奪う制度であり、女にとって合法的売春である」なんていうすごい言い方も、すっきり納得できる。確かにこれは「人間性を奪う」「合法的売春」だよなっ。
きのうは9月11日だった。当然のことながら、新聞は同時テロ関連の記事で埋まっていた。その中にあってひときわ目を引いたのは、重松清による「根深いタマちゃん病」という一文である。いわく、
「タマちゃん」は迷子なのである。ここにいるべきではない動物なのである。それを見せ物にして、感動だの癒しだのともっともらしい口実をくっつける報道の語り口は、迷子になって泣いている子どもを取り囲んで「かわいい泣き顔!」と喜ぶのと変わらない。
こんな痛烈な文章を9月11日の紙面に載せてしまうとは、朝日新聞もなかなかキツイことをする。
掲示板をチェックしてみたら、アトランタのけんたママさんが書き込みをしてくれていた。実に衝撃的な内容だった。
もと軍人のご主人から直接聞いた話だから、ぼくの聞き書きとは迫力が違う。
事実としたら身の毛もよだつ話だし、躊躇なく相手を殺せるようにと計算ずくで流されたデマだとしたら、それもまた恐ろしい。
いずれにしても、こういう話は簡単に書いてはいけないな、と思った。
Visorを買って一週間、こんなに面白いものには久しぶりに出会ったぞ。
電話帳だの予定表だのこづかい帳などは言うに及ばず、英単語を覚えるのも本を読むのも思いつきをメモするのも、もう何でもかんでもVisorになってしまった。電源を入れてから一分も待たされるパソコンとはお手軽さが違う。
パソコンの一万分の一くらいの容量しかないのだが、読んだり書いたりということに関して言えば、まったく不自由はない。
こういう道具を使ってみると、パソコンの進歩って誰のため何のためだったの、という気分になってくる。このくらいシンプルでこのくらい軽い使い心地が一番気持ちいいのに、せっかくハードの性能が上がってもそのたびに重くて過剰装備のソフトを乗せるものだから、パソコンというやつはいつまでたっても鈍重なままだ。稼いでも稼いでも貧乏しているみたいで、何だかここにも人の世の姿を見るような気分って言うか。
たくさん買った本を片っ端から読んでいる。一度に何冊も並行して読んでいることもあって、頭の中がごちゃごちゃになっているのがどこか面白い。
いろいろな人のいろいろな主張が組んずほぐれつ共振したり反発したりという感じで、どこからどこまでが誰の考えだったのか、もう分からない。頭の中で渦巻いている聞き取れないほど早口な言葉や目の裏あたりを次々に過ぎる映像も、さっきまで読んでいた本の残像なのか自分の古い記憶なのか、よく分からない。うーん、こんな風になってしまうと、読書といっても知的営為とは言い難く、状態としては朝までゲームやっちゃったってのと何も変わらないんだよなあ。
先週中古品販売店H/Oで、Visorを買った。これは分かりにくく言えばPalmの互換機であり、分かりやすく言うと電子手帳みたいなもんである。
どうして買ったのかというと、前々から気になっていたPalm専用の英単語学習ソフトがあった、というのも事実であるが、本当のことを言うと、一年前に定価44,800円だった製品が、8,000円で買えたからである。
で、これがもう、面白くて面白くて。
子どものゲーム機よりもずっと小さいくせに、手帳どころか立派にパソコンとしての機能を持っている。あれもできるしこれもできるし、まあおもしろいこと。今のうちにせいぜい遊んで、しっかりマスターしておこう。
自宅の本棚を整理した。最初は奥と手前と二重に並べてある文庫本を奥・中・手前と三重に並べてスペースを空けようと思ったが、並べているそばからばさばさと落ちてきて危険なため断念、覚悟を決めて捨てることにする。
読まなくなった本と背表紙を眺めていても嬉しくない本を100冊ばかり抜き出して、大型古書店B/Oに持ち込んだ。買い取りできる本が29冊、合計740円という。ま、そんなもんだろう。20年前に古本で買った本じゃあな。
そのお金で幸田文「きもの」「流れる」、池内紀「悪魔の話」、西研・森下育彦「考えるための小論文」を買って、630円。 「流れる」は持っている気がするが、ま、いいか。本棚を見る限り全然減ったようには見えないが、まあすっきりしたと言っておこう。
先週買った本は「清水義則の作文教室」、柘植雅義「学習障害(LD)」、樋口裕一「日本語力崩壊」、斎藤孝「子どもに伝えたい<三つの力>」「身体感覚を取り戻す」、藤沢周平「春秋山伏記」、テリー・ケイ「白い犬とワルツを」、辰濃和男「文章の書き方」、猪瀬直樹「小論文の書き方」、どうも仕事に関する本が多いなあ。それから神野志隆光「古事記と日本書紀」、別冊太陽の「かわら版新聞」、三十三間堂で買った仏像の写真集、パソコン雑誌Mac
Powerと来たもんだ。そりゃ本も溜まるわなあ。
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