自然を守る、万博ばんざい

 

 

 

愛知万博は、入場者数こそ当初の見込みを下回りつつも、
どうやら軌道に乗ってきたようである。
準備期間中は、
開催予定地からオオタカの巣が見つかったことが
見つかってしまい、急遽会場を変更する羽目になったり、
切り札だったはずの堺屋太一氏が辞任してしまったりと、
いろいろゴタゴタ続きだったから、
関係者のみなさんは、ここまでこぎ着くことができて、
まずはほっとしているだろう。

ぼくはまだ万博に行っていないためか、
環境に配慮し、かつ盛大に行うというこのイベントが、
いったいどういうものなのか、イメージが湧かない。
というよりも、そんなことができるとは思えない。
だから「自然の叡智」「自然との共生」という
立派なコンセプトも、
反対をかわす詭弁にすぎないような気がしている。

なにしろ万博のためにがしがし木を切り倒したのだ。
ブルドーザーがごうごう唸り立てていたのだ。
それで自然との共生を語ると言うことは、
さんざんぶん殴っておいて、
後から仲良くしようと肩を抱くようなものだろう。
環境に配慮したというのは、
あまり大けがをしないように気をつけて殴った、
ということだろう。
そういうやり方を優しいとは、ふつうは言わない。

レヴィ=ストロースが「構造・神話・労働」の中で、
こんなエピソードを紹介している。
南米のアマゾン川の上流にヤノマミ族という部族がいる。
彼らのテリトリーからウラン鉱が発見された。
これを採掘するために、
延々5千キロにわたる道路がつくられた。
すると、その結果、インディオたちに眼の腫瘍がはやり、
失明する者さえでてしまった。
その眼病を媒介するハエを食べていた鳥たちが、
死んだり、遠くへ行ってしまったりしたからだ。
自然の均衡の破壊がどんな結果をもたらすかは、
このように、まったく予測できるものではない。

念のために言い添えれば、
ヤノマミ族の住む土地というのは、
今でもジャングルの奥地も奥地で、
われわれの感覚から言えば、
まったく手つかずの自然、秘境そのものである。
彼らは今でも、森で猿を射落として丸焼きにして食べる
というような暮らしをしていて、
道路ができたからといって、
一目で分かるほど変わり果てたわけではない。
しかし、実際に生態系は狂い、眼病は広がった。

こういうことを考えると、
なんせ自然に配慮した博覧会ですからな、わはははは、
なんて悪びれずに胸を張るのは、
どこか間違っているような気がする。
たとえ経済的に成功したとしても、
自然の均衡の破壊がいつどんな結果をもたらすか、
誰にも予測できないんだから、
もうちょっと神さまを畏れるような気持ちを持てない
もんかな、と思う。