おうちがいちばん

 

何ヶ月か前に、興福寺を訪ねたら、
無著さまやら世親さまやら金剛力士さまやら
中心メンバーの何人かがいらっしゃらなかった。
地方巡業にお出かけだという。

それがこのたび、
わが愛知県にいらっしゃったと聞けば、
やっぱり、ファンとしては、
出かけなきゃだめでしょ。

で、行ったのだ。雨の中。
会場は、広大な公園の斜面を利用して立つ、
ガラス外観の美術館。
開館を少し待って、展示室に入ると、
いきなり無著、世親像だあ。どどーん。
ガラスケースもなく、抑え気味ながら
隅々まで照明があたっているから、
かぶりつきでじっくり見ることができる。
おねーさんの目を盗んで手を伸ばせば、
べたべた触ってしまえそうだ。
すげー。
後ろに黒いついたてが立てられているためか、
くっきりと細部まで浮かび上がって見える。
すげー。
なんてみごとな展示だろう。

でも、何なんだろうなー。
そのうちに飽きてしまった。

斬新で濃い味付けの料理を一口食べて、
最初はすごいっと感心したものの、
最後までその喜びがもたない、
といった感じである。

これは展示の仕方の問題ではない。
やっぱり、仏像を見るには、
そこがお寺でないとダメなのだ。
たとえ近代的な建物であっても、
法隆寺や、興福寺ならそこを出れば、
目の前に立派な伽藍がある。
だからそれほど気にならないのだろう。

豪華な料理をトイレで食べても(たぶん)
うまくないように、
やはり、仏像を見るには、
それにふさわしい場というものが必要なのだ。
ありがたい仏さまも、博物館では鑑賞の、
いやヘタをすると観察の対象になってしまう。
こりゃだめでしょ。
仏さまからありがたさを除いたら、
いったい何が残るのか。

ずっと昔、インドの博物館で、
インド人仏教徒ご一行様が、
一斉にひざまづいて仏舎利を拝みだすのを
見たことがある。
ありゃ、迫力があった。

おそらく日本人には、
そこまでの宗教的「能力」は備わっていない。
薄暗い堂内で、それなりの荘厳に囲まれて、
読経の声やらお香の匂いやら、
そういうセットが揃っていれば、そりゃ
ちょいと敬虔な気分になるには違いないが、
しかし、かのインド人のように、
周りの雰囲気に関わりなく、
即自的に欲情できるほどの能力があるかといえば、
そいつは無理だろう。

じっさい、今回の展示会でも、
いかにも毎朝お仏壇に手を合わせています、
というじいちゃんばあちゃんばかりだったが、
誰ひとり拝んでなんかいなかったもの。

どんな状況であっても、
宗教的法悦に浸ることができ、
かたじけなさに涙こぼるる、
というのでないのなら、
やっぱり、仏像は、
仏さまにふさわしい場所で見られなくちゃいけない。

事情はいろいろあるのだろうが、
ドサを回って、たましいも何もない、
ただの芸術作品のように扱われてしまうのは痛ましい。

はやくおうちに帰れるといいね。