愛は地球を救うのか

 

 

 

○○が好きな人に悪い人はいない、
という言い方がある。
動物が好きな人、とか、自然が好きな人、とか、
○○には、何を入れてもよい。

言うまでもなく、
この「○○が好きな人に…」という表現は、
○○が好きな人には統計的に見て犯罪が少ない、
ということを意味するわけではなく、
たんに、わたしと趣味の合う人はよい人である、
ということを言っているにすぎない。

すなわち、
わたしは悪い人ではない。
わたしはAが好きである。
ゆえにAが好きな人は悪い人ではない、という論法である。

もちろん、○○が好きな人は、ということで、
みんながどんどん仲良くなっていくだけなら、
これほど喜ばしいこともない。
しかし、残念なことに、
光には、かならず影がつきまとうものだ。

○○が好きな人に悪い人はいない、
と感じる心理の裏には、
○○を嫌う人とは分かり合えない、
という気持ちが常に隠れている。
そして、わたしが嫌いな××を応援する人は、
もうそれだけで敵なのだ。
スポーツを例に取れば分かるだろう。

自分の好き嫌いと善悪を結びつけることは、
理性的には下らない戯言だが、
感情的にはまぎれもない真理である。
そして大きく波立った感情は、
もはや理性によってコントロールできるものではない。

さらにこうした類のいわれのない敵意は、
趣味嗜好の枠にとどまることなく、
どこまでも拡大していくのだ。

見てみるがいい。
チベットでも、
チェチェンでも、
イラクでも、
彼らはみな、
自分と違う民族を憎み、
自分と違う宗教を憎み、
自分と違う風俗を憎み、
自分と違う言葉を話す者を憎み、
まつろわぬものを
力ずくで排除しているじゃないか。
いろいろ理屈は言うけれど、
排除の論理はつまるところ、
自分と違う人たちが憎い、ということに尽きる。

「愛は地球を救う」というけれど、
いわゆる「愛」というものは、
相手のことをその他大勢と峻別して、
この人はわたしの側の人だ、
と感じる気持ちのことである。
だったらそれは、
「わたしの側の人は善で、そうでない人は悪」
という感情と構造的には何も変わるところがない。

反対回りにまわっていたはずのものが、
一周回ってどこかで出会ってしまうように、
もっともすばらしいものと、
もっともおぞましいものが、
ひとつのもののうらとおもてになっているのだ。

何かを好きになったり、
何かを信じたり、
自分に近しい人を大切にする気持ちが、
そのまま
あちら側を憎む気持ちにつながっている。
どうやら世界というものは、そうやって、
愛と正義から生まれ出た憎悪に満ちているようだ。

だからといって何を語り、何をすればよいのか、
ぼくにはまったく分からないのだけれど。