ゆっくり読もうぜ

 

 

 

休暇をとって旅行に出たとしよう。
旅行にはいろいろな楽しみ方があるとはいえ、
そういうときに、
A地点からB地点まで脇目もふらずに走り抜け、
続いてB地点からC地点に向けてダッシュして、
そのまま一目散に帰宅する、という人は、
いくらなんでもいないだろう。

あるいは美術館までわざわざ出かけ、
作品を横目で見ながら入口から出口までを
できるだけ速く駆け抜けて、
どうだオレは速いだろう、
なんてイバりたがる人も、まずいないはずだ。

ところが、こと本を読むという話になると、何となく
「速く読む方がエライ」
という雰囲気があるからおかしなもんだ。
たしかに速く読む方が、
頭は活発に動いているカンジがするし、
短い時間にたくさんの情報が取り込めるから、
そりゃ効率的なんだろうけど、
だからと言って速いほうがいい、というのは、
何かがちーとズレているんじゃないか。

それはたとえば
美術館を全速力で駆け抜けて、
ああカラダによいことをしたとか、
息抜きの旅行で、ものすごい勢いで走り回り、
ふう、時間が節約出来てよかった、
なんて満足するのと同じようなことではないのか。

本を読むというのは、
本を楽しむことに他ならないのだから、
本来であれば、絵画をじっくり眺めるように、
旅先の景色を楽しむように、
ゆっくりゆっくり読まなくちゃいけない。
結末が早く知りたいとか、早く読み終わりたいとか、
そんな気持ちに任せて雑に読み飛ばすというのは、
美術館をダッシュで駆け抜けたり、
映画のビデオを早送りして、
あらすじと結末だけをさっさと確認しちゃおう、
というのと何も変わらない。

速く読んで、その上内容をしっかり理解していれば、
それが一番じゃないか、という人もいるだろう。
たしかに、調べものをするのならそれもよいかもしれない。
しかし「読書」はそういうものではない。

たとえば食事というものが、
栄養を摂れさえすればいい、というものではなく、
味はもちろん、匂いや色合いや暖かさや場の雰囲気など
といったものを合わせて楽しむものであるように、
読書もまた、単なる知識や情報を収集する手段として
とらえるのでは足りない。
ストーリーを追ったり、
知識を吸収しようとしたりするだけに終わらず、
文体や文章のリズムに同化し、
そこに描かれている情景や時間の流れを、
追体験するように味わうべきものだ。

たとえば「長い沈黙があった」という文を
何の間もおかずにばばっと読んで、
どうやってその場の空気を実感できるだろう。

ゆっくりと読んで頭の中に様子を思い描き、
ゆっくり読んでまた思い描き、というように読まない限り、
その味わいは分かりっこない 。
これは、詩集や歌集や句集はもちろん、
小説でも、随筆でも、程度の差こそあれ、同じことだろう。

本は一種の再生装置なのだ。
早送りで聴いて、音楽が分からないのと同様に、
早送りで読んでは、文章の持つ「間」は分からない。
間に込められた余情は分からない。
だからぼくたちは、
一字一句をていねいにたどりながら、
もっと、もっと、ゆっくり読まなくちゃいけない。
はやる気持ちを抑え、
ゆっくり読むように努力しなくちゃいけない。

風呂に入りながら一冊読んでしまうような、
そんな読み方じゃだめなんだ。
分かったな、オレ。