めざせ、国際人

 

 

 

とても女とは思えない顔立ち、
と言われて喜ぶ女の人はあまりいないだろう。
人間離れしたスタイル、と言われて喜ぶ人も
あんまりいないと思う。
それなのに、日本人離れしている、なんて言われると、
何だか嬉しかったりしませんか?

外国人と話していて、
うん、君の考え方は日本人とは思えないね、
なんて言われると、
いや、そうかなあ、でへへへへ、
なんてカンジになっちゃう人は多い。
馬鹿にするな、俺は日本男児だ!
なんて腹を立てる人は、
ま、限りなくゼロに近いでしょう。

何でなんでしょうね。
ま、ひと言で言ってしまえば、
「国際的」な感じが嬉しいんでしょうね。

ところで、
ふつうぼくたちがいう「国際的」というのは、
「無国籍的」を意味することが多い。
もちろん無国籍を理想とする考えもあるから、
国際的がエラくて無国籍的がダメ、
というわけではないが、
どうもわれわれが「国際的」になろうとすると、
なぜか「無国籍」や「にせアメリカン」の方に
ズレて行ってしまうことが多いようだ。
これはちーとばかし問題があるのではないか。

若い頃はぼくも、国籍不明なヤツに憧れていた。
外国に行ったときなどに、
その国の言葉で話しかけられたり、
道を尋ねられたりすると、妙に嬉しかったし、
ひと目で日本人旅行者だと見破られたりすると、
心底がっくりしたりもした。
日本人であるだけで、
なにか恥ずかしいような気がしていたのだ。

それが、近ごろは歳のせいなのか、
日本人であることを
嬉しく思うことが多くなってきた。
神社やお寺や仏像の美しさを、
異物としてではなく
自分の中の何かと感応しているように感じられるのは、
ぼくの中に流れる日本人としての血のおかげだと、
素直に喜ぶことができるようになってきた。

アメリカナイズ以外の形での国際化というものが
あり得るとしたら、
それはきっとこんな風に、
自国のよさに目覚めることから始まるのだろう。

ぼくは、
たとえばアメリカに住む中国人や韓国人や日本人が、
アメリカの言葉とアメリカ的な振舞いを共通項として、
まるでアメリカ人どうしであるかのように
つき合うようなあり方は、
ぜんぜん国際的じゃないと思う。
自分の国らしさを覆い隠してしまうのは、
ただの無国籍化であり、
ちょっと哀しいロールプレイングに過ぎない
ような気がする。

人と人とのつきあいってのは、
やっぱり、
日本人はその日本人らしさゆえに、
ベトナム人はベトナム人らしさゆえに認められる、
という風でなくちゃだめじゃないか。

いわゆる国際化の時代を迎えて、
ちまたでは、やれ小学生に英語を教えるだの、
いやそれより国語教育でしょ、
というような議論が行われているが、
だからぼくはどっちかというと、
ことばの操り方よりも、
日本のすばらしさを教育する方が
大事だと思うんだよなー。

自分の国の伝統や文化に通じ、
自分の国に誇りを持って
相手の国の文化や誇りを尊重できる人こそが、
国際的と呼ばれるべきだし、
外に外にと拡大していこうという人よりも、
日本という内部に沈潜していこうという人の方が、
国際的になってしまうとすれば、
なかなか逆説めいていて、面白いじゃないか。