ディズニーランドで何を学ぶか

 

修学旅行のシーズンである。
ここら辺の中学校の修学旅行は、
毎年東京ディズニーランドに行くものと決まっている。
みんなとても楽しみにしているので、
滅多なことは口にできないのだが、
さてミッキーちゃんと遊ぶことで
いったい何を学ぼうというのだろう 。

バズ・ライトイヤーと一緒に戦う経験を通じて、
正義の心を育てるとか、
ホーンテッド・マンションを克服することで、
迷信にとらわれない科学的な思考を鍛えるとか、
スペース・マウンテンの恐怖に耐えさせることで、
強い心を引き出すとか、
イッツ・ア・スモール・ワールドで
世界の平和を祈念する心を育むとか、
あるいはキャストのみなさんの立ち居振る舞いから、
正しい接客の仕方を学ばせるとか、
ばか高いレストランで食事をすることで、
資本主義の論理を肌で感じさせるとか、
学校にはきっといろいろ深い考えがあるのだろうが、
ぼくにはどうも分からない。

なぜ、ディズニーランドなのか。
いや何も、修学旅行の理念はそもそも、
なんて大時代なことを言おうというのではない。
ただ、修学旅行が単純なレジャーに堕してしまう背景には、
なかなか深刻な問題が横たわっているのではないか、
という気がしてならないのだ。

修学旅行と言ったって、
特に教えたいことなどありません。
だから、せめて、
子どもたちの喜ぶ所へ連れて行きましょう。

つまるところ、
東京ネズミーランドに出かける論理というのは、
そういうことではないか。
中には2泊3日のもう一日を、
工芸品を作ったり、トレッキングをしたり
というプログラムにあてている学校もあるが、
ひどいことに、
グループで東京都内を観光させておしまい
というところもある。
その結果、原宿で2万円のジーンズを買ってきた、
というのが彼らの最大の「収穫」だったりする。

このように、
修学旅行がはっきりとレジャーと化している事態は、
ぼくには学校が荒れているだの、
子どもの学力が低下しているだのということよりも、
ずっと大きな問題であるように思える。
なぜなら、ここには、子どもたちの問題ではなく、
彼らを教え導くべき大人の側の迷走が
はっきり現れているからだ。

近頃の子どもはダメになったと言われる。
年々ダメになっているという声も耳にする。
しかし、言うまでもなく、
生物としての遺伝的資質が
それほど急激に低下するはずはないから、
子どもがダメになっているとしたら、
それは、すべて彼らを取り巻く環境、
つまり親や教師や周りの大人の責任なのだ。

ある仏教系の私立高校は、
今でも新入生を全員永平寺に連れて行き、参禅させている。
朝3時に起床させ、座禅を組ませるのである。
もちろん生徒がみなそれを喜ぶはずはない。
中には「坊主が大嫌いになった」
という者もいるくらいだから、
建学の精神を学ばせるという目的に照らせば
この行事は、 逆効果に終わることも多いだろう。
しかし、気に入られようが気に入られまいが、
教育というのは、
こんな風に教える側の意志をはっきり伝えることを
いうのではないか。

子どもたちが喜ぶからネズミーランドに連れて行こう、
という発想は、子守であって教育ではない。
保護者から苦情が出なければ成功、などという考え方は、
何と呼ぶかは知らないが、
それが教育でないことだけは確かだ。

だから、全国の中学校のみなさん、
子どもたちのご機嫌取りはもうやめて、
教育者としての良心にかけて、そろそろ
はっきりしたメッセージを示そうじゃないか。

日本が大きな曲がり角を曲がってしまったこの時代、
そう、
修学旅行は広島か、長崎に行こうじゃないか。