今宵もまた煩悩にまみれ

 

 

 

中古のパソコンを探しに行ったついでに、
発売されたばかりのノート型パソコン、
iBookを見てしまった。
いけない、いけない。
頭の中は、もうそのことでいっぱいである。

昼食をガマンすれば何とかなるとか、
そろそろわが家のiMacもくたくただしな、とか、
仕事で使っているPowerBookも何だしな、とか、
この間教室用に買い足したパソコンは
2万円以下だったからな、とか、

果ては一日わずかコーヒー1杯分だの、
自分に対する投資だの、
占いによれば白い色は吉だの、
本日はお日柄も良くだの、
我慢はからだに悪いだの、
一度しかない人生に悔いを残してはいけないだの、
およそ考えつくかぎりの理由を並べては、
ひとり悶々としている。

きっとぼくのまわりには、
今や煩悩がどーろどーろとオーラのように
渦巻いているのだろう。

で、ふと思ったのだ。

いくらぼくが煩悩と物欲のかたまりでも、
現代に、かつ先進国に生まれていなければ、
こんなにモノを欲しがりはしなかっただろう。
とすればこれは、
ぼく自体が欲しがっているというよりも、
大きな企業が作り出し送り出した欲望を、
ぼくというものが再生しているだけ、じゃないのか。

まったく、何てことだ。
これじゃぼくは「自己」ではなく、
ただの「反応」に過ぎないじゃないか。

そういえば、
毎日の生活をざっと思い出してみても、
時代が違っていたら、あるいは暮らす国が違っていたら、
どれもやっていないことばかりだ。
これが生活の実体ならば、
ぼくの生活から「今」や「日本」を除いたら、
ぼくの生活自体もきれいになくなってしまうってことなのか。

普遍的な価値や真理、
なんてことを口にすれば笑われてしまうのは承知だけれど、
こんな風に自分の日々の生活が、
誰かが用意した「今」というはかない小片にすがって
漂っているだけのものだと感じはじめると、
さすがに不変だとか永遠などに憧れないではいられない。

世間では、
改革とか革新などと、変わり続けることの大切さが
さかんに叫ばれているけれど、
いつも変わらないもののすばらしさ、
たとえば自然や古典や芸術を、
もっと味わいたいような気持ちになってきた。