この冬休みに、インフルエンザにかかって40度も熱がある子どもをスキー合宿に行かせてしまった親がいる。
その結果、参加80名中50名近くが感染してしまい、楽しいはずのスキー合宿は、ほとんど滑れずひたすら寝るという最低最悪の結果に終わったという。
おそらく同じ飛行機に乗り合わせたほかの人たちも、相当数がやられてしまったことだろう。
インフルエンザの菌をばらまいた少年やそれを幇助(ほうじょ)した母親に、もちろん悪気があったわけではない。
ただ残念なことに、想像力に欠けていた。
そして想像力に欠けるということは、同時に責任を感じる能力の欠如を意味するから、ときとして悪気があるのと同じぐらいタチが悪い。
悪気があろうがなかろうが、人に迷惑をかけた以上、結果に対する責任を免れられるものではない。
ことに社会に出てからは、「悪気はありませんでした」「失敗でした」ではすまないことの方が多いのだから、こういうことを、若いうちから知っておくのは悪くない。
だからぼくはその話を聞かせてくれた生徒に言っておいた。
そいつはさ、自分のせいで合宿がめちゃめちゃになったってことに気づいていないかもしれない。もしかしたら、みんな大変だったなあ、ぼくも苦しかったよ、ぼくたちみんな被害者なんだよね、くらいに思っているかもしれない。
だからもし本人が分かっていないようだったら、はっきり言ってやるといい。 今度の騒ぎは、みんなきみのせいなんだよって。
こういう言い方をすると、必ず非難する人がいる。
「今度から気をつければいいじゃないか」って。
でも人の命を脅かすような手術ミスをしたり、
無実の人に有罪判決を言い渡してしまったり、
うっかり運転を誤って大きな事故を招いたり、
大きな判断ミスで会社を倒産させてしまったり、
そういうことを前にして「わざとじゃないんだから」「今度から気をつければいいんだから」と言うだろうか。
第一、自分が悪いということを自覚していないのであれば、
「今度から気をつける」ことなど期待しようがないじゃないか。
悪気があろうがなかろうが、自覚があろうがなかろうが、悪いことは悪いことであり、悪いことをしたら責任を問われるのは当然であるということ、また
そういう自分の至らなさを反省し、ちょっとはマシな人間になろうと努力するのは当然だということを教えていかなくてはならない。
昨今では柔弱なほど優しいことが善とされているけれど、
だれにでも人権があるとか、ひとりひとりの個性はかけがえのないものだとか、そういう聞き心地のよいことだけを言い立てるのはとっても危険なことだと思う。
そもそもいくら人権を尊重すると言ったって、「叱られない権利」「非難されない権利」なんてもんがあるはずないのだ。
だいたい教育とは、今の自分ではない自分になるための訓練をさすのだから、
そのままでいいんだよ、なんていつもいつも言っていられるはずもない。
ぼくたち大人は、やさしさという美名のもとに、子どもたちを教え導くという肝心の責務を投げ捨ててはいけない。
これは自分自身を戒めることばでもある。
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