面倒くさいぞ!

 

 

 

面白い本を読んだ。
「不幸になりたがる人々」という本だ。
死亡した父親の遺体をミイラ化するまで自宅のベッドに放置していた家族や、
同じように自宅で死亡した妻を床下に掘った穴に埋め、そのまま何年も暮らした男の話が出てくる。

彼らはなぜ、そんな異常な行動を取ったのか。
著者によればそれは、
「他人とのやりとりがひたすら面倒だったから」 という。

自分で穴を掘ったり、異臭がしないように家を丸ごとビニールで被うといったとてつもない手間よりも、
人に頭を下げて頼んだり、あれこれの手続きをする方が
はるかに面倒だったから、というのである。
これはまったく卓見だと思う。

殺人犯ですら、死体処理の段階で面倒になってきて詰めの甘い始末をするから、捕まってしまう。
企業は徹底的な品質検査が億劫になって、手を抜いたあげく大事故を起こしてしまう。
「面倒くさい」のは、実に世の中全体を冒す重篤な病なのだ。

勉強しなくちゃいけないけど面倒くさい。
解き方の説明を読むのが面倒くさい。
途中の計算式を丁寧に書くのが面倒くさい。
検算するのが面倒くさい。地図帳を開くのが面倒くさい。
問題をきちんと読むのが面倒くさい。
辞書を引くのが面倒くさい。
あれもこれもやった方がいいことは分かっているけど
たまらなく面倒くさい。
だから、えいっと適当にやっつけて間違える。
だからいつまでたっても身につかない。
たしかに勉強が苦手な子たちはこうである。

いろいろ振り返って見れば、こういう気持ちが勉強の(そして大人にとっては仕事の)最大の敵であることは明らかだ。
この怠け心をどう克服するか、どうごまかすか、ということがすなわち自己修養の要諦と言ってもよい。

ところが、歴史というものは、皮肉なことにこれとはまったく反対の方向を向いているのだ。
人類の歴史は文明化の歴史であり、文明化とは、怠けることをひたすら目指す過程に他ならない。

必要は発明の母という。
分かりやすく言えば、われわれは億劫がる心性をうまく利用することによって、次から次へと便利な装置を生み出し続けてきたのである。
面倒くさがることを、ニーズだのシーズだのと名づけて尊重してきたと言ってよい。

人間はそうやって面倒なことを発見し、道具によってその面倒を取り除き、さらに高度な面倒を発見し、取り除くということを延々と繰り返してきた。それを文明と称し、進歩と信じてきたのである。

アブナイぞ、これは。