いいの、見えないところなら

 

 

 

名著「小さな動物学者のための観察ブック」の著者である
熊谷さとしさんが、掲示板に書き込みをしてくれた。
何でも東京では、冬眠前のツキノワグマが山から降りてこないようにと、「柿もぎボランティア」ってのが、せっかく残った柿まで懸命にもいでいる、 そうである。

うーん。
事情はよく分からないが、柿を目当てに下りてきて
撃たれてしまってはかわいそう、ということなのかなあ。

山で食べ物に事欠いたクマが里に下りてくる。
柿はきれいになくなっていて、食べるものがない。
そしたらクマはすごすご帰って二度と下りてこない、
という筋書きなのかもしれないが、実際にはどうなんだろう。

栄養が足りなくて死んでしまったりしないのだろうか。
冬眠中に生まれる子供のための乳はたっぷり出るのだろうか。
どうにもこうにもお腹が空いて、怖さも忘れて人里に下りてくる、なんてことにはならないのだろうか。

そういうことを考えると、柿をもいでおくということは、必ずしもクマを保護していることにはならないような気がする。
それは、いま目の前にクマが現れていま目の前で撃たれるようなことにならなくて、ああよかった、というだけの、
取りあえずの安心をもたらすものに過ぎないのではないか。

動物に関して、もうひとつ「かわいそうな」話をしよう。
これは数日前にニュースで読んだ。

首都高速でブタを載せたトラックが事故を起こし、
放り出されたブタが6匹、後続のクルマに轢かれ死んでしまったという話だ。
何匹かのブタはそのまま首都高を逃げ回って、しばらく現場は通行止めになったらしい。
最初は笑ったが、ついで何とも痛ましく、哀れな気がした。

この話を聞いたとき、
ひかれたブタはかわいそうで、助かったブタは幸運だった。
誰もがきっと思うだろう。

しかしこのブタたちは、愛する飼い主とともにドライブを楽しんでいたわけではなく、
食肉センターに運ばれるところだったのだ。

ってことは、荷台から転げ落ちなくても、彼らはどのみち殺される運命にあったわけで、
つまりぼくは「もう少しで殺されるところだったのに、ひとあし早く死んでしまったブタ」を哀れに思っていたことになる。
彼らにとっては事故死も屠殺も、人為によってもたらされたという意味で、何の違いもないというのに。

いっぽう難をのがれたブタたちは、予定どおり運ばれて、ぶじに食肉になっただろう。
さて、彼らは幸運だったのか?

可哀想とか何だとかという類の判断基準は、
せいぜいこんなモンなのだ。
要するに、かわいそうな出来事は、
それが起こってはならないのではなく、
私の目に触れる範囲で起こってはならない。
私がそれに関わってはいけない。
ただそれだけのことなのだ。

だから、
クマが里で撃たれるのは可哀想だが、
山奥でひっそりと飢えていくのはオッケー。
数匹のブタが道路で轢かれるのは可哀想だが、
何万匹かが屠殺されるのはオッケー。
クラスが荒れるのは困るけど、
遠いイラクで戦争するのはぜんぜんオッケー。
なんてことになるわけだ。

正義を語り優しさを説くのもよいけれど、
それはせいぜいこんな感じの、
テキトーな正義、テキトーなやさしさにすぎない
ってことなんだよなァ。