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かなり以前の話だが、「気配りのすすめ」という本がベストセラーになったことがある。
ものすごく売れたから知っている人も多いだろう。
本が手許にないため、はなはだ曖昧だが、
確かそこに、こんな意味のことが書いてあった。
「美しい言葉遣いを身につけるのは簡単である。
ただ自分のことをわたくし、と称すればよい」。
確かに「わたくし」で始めれば、ことばは美しくなる。
「わたくしはめっちゃむかついた」
「わたくしのすることに文句あっかよお」
とは普通は言えないものだ。
わたくし、ではじめて汚い言葉につなげにくいのは、
何も語感だけが理由ではない。
わたくし、と口に出したとたん、
自分は「おれ」「あたし」ではなく
「わたくし」という存在になるからだ。
そして、わたくし、と語りだしたその瞬間、
誰もがおれではないわたくしにふさわしいものとして、
考え、語り、行動するようになる。
言葉遣いというものは、ただ人に好感を持ってもらうための方便などではない。
自分というもののあり方を規定する強大な力なのだ。
ヤクザはヤクザだからヤクザ語を使うのではない。
むしろヤクザ語を使うことによって、
意識の根底からヤクザに変貌するのだ。
政治家語を使うことで、政治家のようになり、
不平語を使うことによって不平をぶつぶつ言う人になり、
繊細なことばを使うことで繊細な人が生まれる。
ことばと人柄とは、そんな関係にあるものだ。
だからぼくは提案したい。
ことばにもっと自覚を持とう。
そして手始めに、大人に向かって「おれ」という子どもを、
叱りつけよう。
「おれ」を許すのであれば、「おれ」にふさわしい自立を要求しよう。
どこまでも届く柔らかい庇護を期待しながら、
その一方で「おれ」としての尊大な権利を要求するというのは
あまりにも見苦しいじゃないか。
親であるぼくたちは、
子どもが使うことばの向こうに、
いったいどんな人間像が待っているのか、
もっと自覚的になったほうがいい。
大人に向かっておれがおれがと言わせておきながら、
やがては礼儀正しい謙虚な大人になってほしいなんて、
そんなこと、無理に決まっているじゃないか。
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