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注文してあった宇佐見英治さんの「明るさの神秘」が、今日届いた。さっそく拾い読みをしてみる
驚いた。これほど無私の透き通った文章は久しく読んだことがない。宮沢賢治やヘルマン・ヘッセを語るときの、へつらうことなく淡々と書きつづりながら、彼らに対する感謝と崇敬を忘れない姿が実に美しい。
だからこそ、自筆の年譜には胸が痛んだ。
大学では商学部で芸術の講義を担当したが、そのようすは、300人も入る大教室で「十五、六人居ればよい方で、しばしば二、三人になることが多かった」らしい。それでも彼は「聴講学生の多寡にかかわらず、一度も休まず講義をつづけ」「数年ごとに主題を変え、また講義ノートが赤インクの書き込みで真赤になるほど、省察を重ね、新たな発見を書き込んだ」という。
ああ、これほどの人の講義を聴かずただ遊んでいた学生よ、君たちはなんて愚かなのだ。
友人と喫茶店で交わすとりとめもない話に、氏の渾身の講義に勝る価値があったというのか。
確かに商学部とあれば、よほど厳しく出席でも取らないかぎり、学生は集まらなかったろう。
出席していた学生も、おそらく芸術論に興味があるわけではなく、中には暇つぶしや暑さしのぎに座っていただけという者も混じっていたはずだ。
この推測にはかなり自信がある。
なぜならぼくは、ちょうどその時期、彼が講義をしていた大学の学生だったからである。
ぼくが在学していた当時、明治大学は実に豪華な教授陣を擁していた。
特に法学部は素晴らしく、哲学は中村雄二郎、市川浩、土屋恵一郎、法社会学は栗本慎一郎、文学は大岡信、フランス語は飯島耕一という、まあ、東大だってこうはいくまいという顔ぶれだった。
だからこそぼくは早稲田慶応などには目もくれず、明治の法学部を選んだのだが(うそ)、もう学生ときたら勉強しないのなんのって。豚に真珠、猫に小判とはまさにこのことであった。そして悲しいかな、ぼくもまた、当時はひとりの豚、ひとりの猫に過ぎず、下宿にこもって小難しい本を読みこそすれ、授業はまったくサボり放題だったのだ。
今思うと、自分の馬鹿さ加減が悔やまれてならない。
学問というものの凄さにも、勉強する機会の貴重さにも、あまりに無頓着だった。勉強の面白さに気づいたときにはもう4年生。一生懸命勉強したけれど、さすがに短すぎた。
もっと早く目覚めていれば、すばらしい教授陣に驚倒し、喜々として勉強したことだろうに。
思えば素晴らしいものに囲まれていたあのころ唯一足りなかったものは、素晴らしいものに恵まれているという自覚だったのかもしれない。
だから今学生生活を送っている諸君、
せめてきみたちは、恵まれた時間を宝玉の如く惜しみ、
明日という日を忘れたように勉強するがいい。
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