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さすがに梅雨だけあって、今日も雨である。
週末に降る雨にはとりわけ気分が沈む。
水を飲み、米や野菜や果物を食べ、煮炊きをし、風呂に入り、
つまりはぼくたちがこうして生きていられるのは、
すべてこの雨のおかげなのだとは分かっているが、
降りこめられているさなかには、ただ恨めしいばかりで、
そんな実感などとうてい湧くものではない。
外出を楽しみにしていた休日に大雨が降って、
「ああ、これで飲み水は安心だ」とか
「畑の野菜も嬉しかろう」
なんてことを実感できる人がどれほどいるか。
ぼくはそういう点、まったく人間ができていないから、
そんな日にはただプリプリ不機嫌になるのみである。
それでもかつて、雨が楽しみで仕方がないことがあった。
親しい友だちと、お題を決めて写真を撮っては自慢しあっていた時分のことだ。
その年はちょうど今頃、たまたまテーマを「雨」と決めたのだった。
そしてたったそれだけのことが、憂鬱なはずの雨を待ち遠しいものに変えてしまった。
いつもカメラを持ち歩いて、
雨が降り始めればまだらに濡れた舗道を撮り、
激しい雨になればクルマが跳ね上げる飛沫を撮り、
雨が上がれば街路樹から滴るしずくの輝きを撮り、
雲が切れれば水たまりに映る空を撮った。
もっといろいろな雨が撮りたくて、 雨が降るのを毎日心待ちにして、
朝起きたときに晴れていたりすると、ちょっと期待はずれの感じがするくらい、 雨が待ち遠しかった。
仏教の用語に「無記」というのがある。
ものごとには善も悪もない。ただ善にも悪にも転びうる透明な性質があるだけで、無記とはそのまっさらな状態を指すという。
この世の中のすべてのものに、よいもわるいもなく、
ただ自分のこころのあり方がそれを決める。
こんな当たり前のことなのに、どうして普段は忘れているのだろう。
どうせ生きていくものなら、
あれがいけない、これがいけないと不幸のタネを飽かず数え続けるより、
ユーウツなはずの雨さえも待ち望むような、しあわせな気分でいたい。
そんなことをぼんやり思う、はあ、なんとも静かな夜だわさ。
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