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先月28日の「NHKスペシャル」、見ましたか?
脳障害のため全身が不自由で言葉も話せない身でありながら、お母さんの手を借りながら文字盤を指さす方法で、多くの詩やエッセーを書き続ける日木流奈(ひき・るな)くん(12)のドキュメンタリー。
流奈くんは、「奇跡の詩人」「天才詩人」と言われ、ずいぶん前から知る人ぞ知る存在だった。
最初の本を書いたとき、流奈くんは6歳とか7歳とか。
で、そのときどんな文章を書いているかというと、
| にちよびにどぶつえんにいきましたそしてぞおさんおみましたそしてぺぎんさんおみましたそしておべんとおたべましたそしてかえりました
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という実にこどもらしい、ほほえましいもの、などではなくて、
| 私は生まれた。 私が生まれた日、嵐が人々に振り掛かった。母には会えず、私は、救急車でマリアンナ病院の救急センターに運ばれた。私はすぐ箱に入れられ、手術の準備をされた。
私は生きられるのだろうか? 言葉にならない不安が心をよぎる。 暗い世界から、光りあふれる暖かい世界にやっと出てきたのに!
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と、こんなカンジだからもうビックリ。
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さて、番組中でも彼のこの知性はいかんなく発揮されて、
当意即妙と言いますか、大人だってこんな受け応えはできないと思わされる、それはそれは見事な応答をしていた。
見事なだけでない。
おかあさんに支えられながら文字盤を指さすスピードは、目にも止まらない速さで、考え込んだり言い淀んだりすることもない。 すごかった。いや、ほんとにすごかった。
で、番組が終了してから、視聴者から「感動した」「信じられない」と賛否両論がNHKに殺到したそうである。
そりゃそうだろう。
あれを見て、ふーん、と言って通り過ぎるのは難しい。
今でも「ほんとうだ」「いやインチキだ」とカンカンガクガクの議論が起こっているようである。
NHKもわざわざ別の番組の中で事情説明をしたくらいだから、ま、世間は疑わしい気分の方に傾きかけているのかもしれない。
ほんとうかインチキかという議論になると、一般的には「インチキ」という主張に分があるようだ。
ネッシーとかO真理教の空中浮遊とかMr.マリックとか、スプーン曲げの 関口もと少年(知ってる?)とか、すごくホントっぽかったけど、実はインチキでしたポリポリ、という例は枚挙にいとまがない。
しかし、ぼくはこの流奈くんのケースは、どちらでもよいと思っているのだ。
本当かインチキか、ぼくには自分で確かめるだけの材料がないし、
もし流奈くんじゃなくて、おかあさんが作文してしゃべっていたのだとしても、それはただ、天才詩人の名が、日木ルナくんではなくて、日木ママさんだった、というだけだからだ。
ルナくんだろうがママさんだろうが、作者の名前などどうでもいい。
作品というものはそのように扱われるべきだ。
ぼく自身はルナくんの著作はざっとしか読んではいないが、「脳障害を持った」「子供」だからといって、特別な思い入れをもって読むのは失礼だと思っている。
ほんとうに優れたもの、たとえばウィーン少年合唱団や木の十字架合唱団の歌声を、こどものくせに案外上手ねえ、なんていう気持ちで聞く人はいないはずだ。
量子宇宙論のホーキング博士をつかまえて、からだの自由がまったく利かないのに、けっこう物知りねえ、なんて評するだろうか?
「脳障害」の「子供」の意外な能力に驚くために本を買うのであれば、それは見せ物小屋に群がる心理と何ら変わるところはない。
ルナくんの作品を語るのに「脳障害」「子供」という舞台装置がどうしても必要だというのなら、残念ながらルナくんの作品は作品として評価するだけのレベルにないのだ。
彼の作品、彼のことば自体にほんとうの力が宿っているのであれば、繰り返すが、作者に障害があろうがなかろうが、こどもであろうがなかろうが、そんなことは関係がない。
作者の名が、ルナくんであろうと、ママさんであろうと、パパさんであろうと、まったくどうでもよい。
すばらしい作品は、誰が書いたものであれ、すばらしい。
くだらない作品は、誰が書いたものであれ、くだらない。
つまり、肝心なのは、そういうことじゃないのかなあ。
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