この人を見よ (B面)

 

 

 

そうは言っても、この話は、
森田さんが善玉で、
反対した人たちが悪玉だと
言い切ってしまえるほど単純ではないはずだ。

不法投棄をするのは、遠くからはるばるやって来た人かもしれないが、通信箱を壊したり、看板を投げ捨てたりしたのは、きっと地元の人たちだろう。

森田さんと地元の人たちとの間に横たわる黒々とした憎悪の溝が、ぼくにはどうも気にかかる。
いったいこの憎悪はどこから生まれたのだろう。
干潟を蘇らせ、野鳥を守るために、我と我が身を捧げる無私の人を、なぜ彼らは憎んだのか。
彼らが悪い人たちだったから?
それとも、埋め立て再開発に群がる利権がらみの争いとか?

その可能性もあるのだろうが、ぼくはこんな想像をしている。

森田さんという人は、こういう大変な事件を起こしてしまったくらい気性の激しい人だから、黙々とゴミを拾い続けただけでなく、ゴミを捨てる人を見れば、おそらく「注意」もしただろう。(あ、どうぞ、ぜひ「大変な事件」を読んできてください。ふたつめの記事です)

この「事件」の記事を読めば分かるように、
正義というものは、本質的に不寛容であり、自分と異なる考え方を認めないものである。
ことにその正義が主張ではなく実現を目指しているとき、その意志が強固であればあるほど、不寛容の度合いも強くなる。
絶対の善を掲げて、異教と異端を根絶してきた西欧育ちの宗教を思えばよい。
善といい正義というものは、愛と寛容よりもむしろ暴虐に近いものなのだ。

正義の実現を目指す森田さんは、近所の人たちに対しても、正しいことをはっきり言っただろう。正しくない人たちには、容赦がなかったろう。
そうだとすれば、自分たちの善良さが否定された人々が、彼を憎み排斥しようと思うようになるのは、むしろ自然な流れに見える。

言うまでもなく、思想や行動の正しさというものは、何を語り何を行うかではなく、ときにはどう語り、どう行うかによって決まるものだ。正しい指摘をされたとき、それを聞き入れるかどうかは、指摘の内容の妥当性ではなく、もっぱら語り方によって決まると言ってよい。
有り体に言えば、「あの人が言うのなら」と思うか、「あいつの言うことなんて」と思うか(だけ)が、問題なのだ。
その点、森田さんはどうだったんだろう。

いずれにせよ、言っていることがいくら正しかろうと、
たかが鳥や魚や貝のために人と人が憎み合うことになるとしたら、くだらない。
人があっての環境保護、人のための環境保護なんだから、
鳥や魚の暮らしなんてものは、人を不幸にしてまで守ってやるべきものではない。
運動の渦中にあると、こういうことが見えなくなりがちだ。

環境保護より地域開発の方がよほどメリットがある、と地元の人が感じるのは、むしろ当然のことなのだから、
そう感じること自体を「悪」として排斥してしまってはいけない。
環境保護は、何よりも優先されるべき「絶対的な善」などではなく、せいぜい数ある「よいこと」のうちのひとつに過ぎない。
こういう冷静さを欠いて、「よいことはいつでも誰にとってもよいことで、それに反対する者は悪である」などという合唱が始まるとき、歴史はいつでも暗転するものなのだ。

森田さんという人の全存在が正しいわけではない。
森田さんが30年近くゴミを拾い続けたその行為が尊く、素晴らしいのだ。

ぼくは彼の行いに感動した。
だからなおさら、彼を偶像化し、声高に正義を叫ぶことに、あえて水を差したくなった。