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同世代の連中と、他愛のない昔話をするのは楽しい。
その時代を同じように過ごしてきたものにしか通じない話を持ち出して、そういうのあったよなあ、なんて言い合うのは、妙に楽しい。
部屋の中でも手袋を外さないヤツを見て、
そう言えばさ、ベイシティローラーズってさ、ミトンの手袋はめたままギター弾いてたよな。
そうそう、客席に手振ってんのにギターちゃんと鳴ってんの。
あはははは。
でも演奏はすごかったぞ。ピアノがないのにピアノの音するんだもん。
わはははは。
などと言うのとはちょっと違うかもしれないが、
いや、全然違うのだが、
なんかこう、誰に対しても、全部言わなくてもちゃんと通じる共通のネタっていうのがあるだろう。
たとえば「ひとつください、おともします」と言えば、桃太郎、「お椀の舟に箸(はし)の櫂(かい)」なら一寸法師と分かるとか、
「祇園精舎の鐘の声」なら平家物語、「春はあけぼの」なら枕草子と分かるとか、
チビ太と言えばおでん、シュワッチといえばウルトラマンとか、そんなことでもいいのだが、
ほぼみんなが知っているようなもの、あるいは、
日本人ならこいつは知っておいてほしいよね、ということを、ぼくは勝手に「国民的教養」と呼ぶことにした。
ま、全国民的に共有している知識、みたいな意味ね。
それでは誰もが知っているべき「教養」には、どんなものがあるのか。
たとえば、有名な昔話。
桃太郎だの浦島だの金太郎だの舌切り雀だのかぐや姫だの、そんなもの。
たとえば、重要な歴史上の人物。
聖徳太子だの福沢諭吉だの新渡戸稲造だの夏目漱石だの、そんな人。あ、これは重要なお札上の人物か。
たとえば有名な故事成語とか漢詩の一句とか俳句や和歌や詩の一節とか。
四面楚歌だの呉越同舟だの酒池肉林だの白髪三千丈だの飲酒運転(ごめん)だの、 そんなもの。
あるいは「かわず飛び込む水の音」とか「じっと手を見る」とか「小諸なる古城のほとり」とか、そんなもの。
こういうものは、ちゃんと教えていかないと忘れられてしまうものだ。
自然に受け継がれていくには、現代という時代は情報が多すぎる。
あまりにも目に触れ耳に入る情報が多いから、同じ物語に繰り返し触れ、そうしてそれを血肉化していくということがなかなかできないのだ。
そうしているうちに失われていく「教養」が何と多いことか。
一昔前であれば、「青葉の笛」と言われて敦盛の最期を思い出したり、「草薙の剣」と言われてヤマタノオロチを思い出したり、「玉梓」と聞いて里見八犬伝を思い出したり、「星君!」と聞いて花形満を思い出すようなことは、けっこう皆に共通していたのではないか。
こういう共通のベースというものが、だんだん、というよりものすごい勢いでなくなっているような気がするのだ。
部下やら後輩相手に、延々とカラオケを聞かせたりしている人を揶揄して「まったく『寝床』だね」と言ってみても通じない。
天照大神は「てんてるだいじん」、大国主命は「だいこくせいめい」と読まれてしまう。
「江戸っ子だってねえ」「寿司食いねえ」と森の石松がつながらない。「殿中でござる」が松の廊下と結びつかない。などなどなど。
こういう状況はよろしくない。
やっぱり何とかして伝えて行かなくてはならない。
なんてことを、最近ぼくは思っているのだ。
だから、というわけでもないのだが、
この前、お菓子をいただいたとき、大きな箱とやや小振りの箱を見せながら、生徒諸君に聞いてみた。
「大きなつづらと小さなつづらとどっちがいい?」
もちろん、舌切り雀のハイライトシーンを踏まえての問いかけである。
みんなのこたえに、迷いはなかった。
「両方!」
日暮れ、道遠し、である。
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