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今日は建国記念日である。
と書いたが、あわただしく働いているうちに1日たってしまった。ちょっと書き直そっと。
きのうは建国記念日であった。
ところで建国記念の日とは何か。
ずっとむかし、奇しくもちょうど2月11日に、日本という国がむくむくむくっとできあがった、わけはないのだが、子どもの頃、ぼくは何か変な感じがしつつも、漠然とそんなイメージを持っていた。
なにしろ建国とは何を意味しているのか、ぼくは教えられた覚えがない。
試しに中学生に聞いてみたら、冗談めかしてではあるが、
「日本がアメリカから独立した日」
「日本がユーラシア大陸から分かれた日」
「日本の初代大統領が就任した日」
なんて言っていたから、まあ、今の子たちも似たり寄ったりなのだろう。
ま、知らなくても祝日は祝日だし、休みだひゃっほー、と遊ぶ分には構わないのだが、建国、というただごとではない響きを前にして、それが何を意味するかを教えられたこともなければ考えてみたこともないというのは、少々不自然なのではないか。
やっぱり、ちゃんと教えればいいと思うんだよね。
建国記念の日というのは、紀元節を復活させたものであること。
紀元節とは、日本書紀に記された神武天皇の即位の日を祝日にしたものであること。
神武天皇とは初代の天皇であり、古事記によれば天照大神の孫の曾孫にあたること。
日本では戦前までは神武天皇の即位を紀元とする皇紀を使っていたこと。
西暦2002年は、皇紀2662年にあたること、なんかをさ。
建国記念の日を教えるついでに、イザナギ・イザナミの国生み神話から話してやればいいじゃないか。
別に史実としてそれを信じさせろとか、テストで試せと言っているわけではない。おもしろいお話だよね、ははは、でもいいから話してやったほうがいい、と言っているのだ。
そう言うと、思想の自由を踏みにじるものだとか、軍国主義の復活だとか、特定の宗教に偏っているとかの反対が起きるのは知っているが、
好きか嫌いかは別として、自分の国の建国神話くらい、知っているのが普通じゃないか。
むしろイザナギ・イザナミが、一民間人たる桃太郎や浦島太郎や、外国産の家畜である三匹のこぶたと比べてさえ、格段に知られていないという今日の状況の方が、よほど奇妙なのではないか。
こんなことを教えるのになぜ遠慮がいるのか、これがどうして思想の自由を侵すことになるのか、ぼくにはよく呑み込めない。
そもそも「思想の自由」というのは、これから何でも詰め込んで良い、どう使ってもよい空っぽの箱のようなものである。
もちろんその空っぽは、いつか何かを入れるための空っぽであって、いつまでも空っぽにしておくことに意味があるわけではない。空っぽそのものに至上の価値があるわけではない。
大宅壮一がわが国の状況を「一億総白痴化」と評してから45年。もうこれ以上空っぽになる必要なんかないだろう。
ぼくは、日本という国は素晴らしい歴史を持つ美しい国なんだよ、とか、自分の国を愛するのは当たり前なんだとか、ずっと引き継がれてきた日本の文化は大事にしてきたいね、とか、そういうことを教えないでいる意味が分からない。
そういう当たり前のことを教えずに、空っぽを大事にする気持ちが分からない。
こんな空っぽは自由でも何でもなく、ただの無知、ただの空虚に過ぎないだろう。
祖国を愛する気持ちというのは、歴史と伝統を尊ぶことなしには育たない。
たしかに祖国を愛さなくても生きていけるけれど、
それは家族を愛さなくても生きていける、と言うのにも似て、
ひどく淋しいものじゃないか。
そういえば、子どもの頃は、祝日にはどこの家でも国旗を揚げていたような気がするが、
ぼくはさしずめ国粋主義者と反動主義者と右翼と軍国主義者と好戦論者ばかりが住む町に育ったということになるのかなー、ぶるぶる。
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