あやめ、いちりんそう

 

 

 

花カード、というカルタがある。
読んで字のごとく、花の名前をカルタにしたものだ。 「あ」は「あやめ」、「い」は「いちりんそう」、「う」は「うらしまそう」。
恥ずかしながら、ぼくは木の名前、花の名前、鳥の名前、虫の名前、などにまったく疎く、 一輪草も浦島草も、このカルタで見るまでは、ぜんぜん知らなかった。

もう少し花の名前を知っていれば、その分だけ人生は豊かになるんだろうな。
だって野山を歩いていて、(あ、花だ)と思うのと、(ああ、ほたるかずらだ)と思うのでは、シアワセ度がずいぶん違うじゃないか。

名前を知ることで相手に対する親しみが増すのは、相手が人でも植物でも地名でも、同じことだ。
名前を知ることが好きになるための最初だし、好きになることが、それを大事にしようと思うはじめなのだ。

たとえば、何とかという湿原に咲いている何とかという花を守りましょう、と言われても、今ひとつその気になれないが、尾瀬の水芭蕉(みずばしょう)を大事に守っていこう、と言われれば、うん、そうだそうだ、という気になるものじゃないか。

 
「わ」わが家のアマリリス
 


だからぼくは理科の授業では、何よりも優先して植物の名前を教えたらよいと思う。
山という山が戦後植林したスギだらけになっていても、「いいじゃん緑がいっぱいで」と何ら怪しまないようでは、多様な自然をそっと保存しようという細やかな配慮は生まれようがない。

環境保護の大切さを訴えるのもよいが、その前に、木や花や動物や昆虫の名前を教えてやろう。

そして、国語や美術の授業では、色の名前を片っ端から教えてやろう。
赤しか知らないのと、緋、紅、蘇芳(すおう)、朱、茜なんて色を知っているのでは、表現力というよりも、感じ方そのものが違ってくるだろう。

経験に先立って、こんな風に名前という知識を先に教え込む。
それを詰め込み教育と呼ぶのなら、ぼくは詰め込み教育を大いに支持したい。

よい教育と言えば、最近ではのびのびと個性を引き出すことばかりが思い出されがちだ。
しかし、大人になってから(ああ知っててよかったなあ)と思えることをどんどん詰め込んでやることも、ぼくはまた、優れた教育のあり方だ、と思うのだ。