何だかんだといったところで今度の教育改革は、
「 勉強の内容を簡単にすれば、みんなができるようになって、みんながハッピーになれる」という、まことに単純素朴な筋書によっている。
文部科学省も最近になって、必ずしも指導要領の枠にとらわれず踏み込んだ指導をしてもいい、なんてことを強調しているようだけど、
単なる目安がいつしか鉄則になってしまうのは、今の書き順指導の融通のなさを見ても明らかだ。
だからきっとこれからは、簡単な教科指導と、その場しのぎの気晴らしのような授業が、多くの小中学校で繰り返されていくことだろう。
そもそも、 勉強というものは、誰でもできるものではないし、誰もができるようになる必要もないし、誰もができるようにする必要もない。それを「全員が百点を取れるような教育」なんて意味不明のことを言うからわけが分からなくなるのだ。
文部科学省の人たちは、どうやら子どもたちの現状を知らない。
できないという状態は、教える内容を簡単にすれば何とかなるというような生やさしいものではない。
できない子の頭の働きに分け入って、忍耐強く「分かる」体験を積み重ねさせるしかないし、分かるときの頭の働きをそのつど実感させて、それをいつでも再現できるように導くしかないものだ。
山頭火の句ではないが「分け入っても分け入っても青い山」の中を、さらに分け入って分け入っていくのが教えるということなのだ。
そういうデリケートな職人技を軽んじて、「 んなもん中身をカンタンにすりゃいいんだろ」 ってな決めつけをされると、何かぼくたち教える人間ばかりでなく、子どもたちまでバカにされているようで、腹が立つやら情けないやら。
ぼくとしても、「ゆとりのある生活」というのは、まったくすばらしいことだと思うし、その考え方に異を唱える気はまったくない。
しかし、負担を減らせば理解が進み、ゆとりが生まれるという短絡的な思考はどうもいただけない。
こうなったら「こどものためのゆとり」などという表向きの理由は捨てて、
「学校教師だって、土日休みを取って、民間並みのゆとりある生活をしたいですう」
なんて正直に言ってもらった方が、よっぽど共感できると思うんだけどなあ。
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