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宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は、美しい作品だ。
視覚的に美しいだけでなく、こころのあり方が実にうつくしい。
友人を助けようとしていのちを落としたカムパネルラだけでなく、ほらジョバンニのこのことばの美しさはどうだろう。
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「…氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、激しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうに気の毒でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう」
「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
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ぼくにはこのりきみ方を茶化す気など毛頭ないし、これらのことばに託された宮沢賢治のこころのあり方を疑うつもりもない。
こどもたちがこうした考えを抱くのは望ましいことだし、平凡に生きている大人たちがみなこんな風に思っていれば、さぞ世の中は住みやすくなるだろう。
しかし、他人のほんとうの幸いを本気で願い実現しようとする人が 、あたかもそれをなし得るかのような強大な力を持ってしまったとき、ひとの幸せを祈る美しいこころは、往々にして禍々しい巨大な悪に姿を変えてしまう。
オウム真理教の幹部たちは、
(賠償金を勝ち取るだけではこの人たちのほんとうの幸せを実現することはできない)と考えた弁護士だったり、
心身に障害を持つ子どもたちの世話をしながら(この子たちをほんとうに幸せにしてあげるにはどうしたらよいのかしら)と一心に考え続けた福祉施設の職員だったり、
(科学者として狭小な専門分野の研究に没頭するより、もっとすべての人のためになるような仕事がしたい)と願った若者だったりしたのだし、
イスラエルのテルアビブ空港で、銃を乱射し無辜の人々を無差別に殺した奥平剛士や岡本公三も、自分のいのちを銃撃にさらして散ることで、貧しい人々の幸福を実現するための捨て石になろうとしたのだろう。
大富豪の家に生まれながら私財をなげうち、安寧な暮らしを遠く離れて神の大義のためにはたらくビン・ラディンも、貿易センタービルに突入して何千人ものいのちを蹴散らしたモハメド・アタもまた、彼らの論理の中にあっては言うまでもなく、神の栄光をあらわし、ひとに幸いをもたらすために自分のすべてを捧げた人なのだろう。
世界のすべてを救いたいと願うまでに肥大した自我。
どこかにいる観念的な「誰か」のしあわせのために、目の前の本物のひとのいのちを奪って恥じない尊大な正義感。
真摯な姿勢で世のために生きようとした人たちが、いったいどうしてこうなってしまうのか。
どこまでもどこまでもまっすぐ行こうとしていた人たちが、どうしてメビウスの環に捕らえられ、善と悪とが裏返る悲惨を味わうことになってしまうのか。
さほど真面目でもなく、優秀でもなく、「ホメラレモセズ、クニモサレズ」生きているだけの人には、決して縁のない地獄がそこにある。
いったい彼らの刻苦や努力や真面目さひたむきさは、何だったのだろう。
ジョバンニはそれでも言うのだ、
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づくひとあしずつですから。」
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