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ここのところ、明治大正から昭和のあたまにかけての本をまとめて読んでいる。
漱石鴎外から始まって、太宰やら芥川やら宮沢賢治やら中島敦やら、特に系統立てもせず、思いつくまま楽しんでいるのだが、思えばこれらの本は、小学校から中学校にかけて読み耽って以来、ほとんど顧みることがなかった。
今読み返してみると、いやあ、面白い。
日本語の響きの美しさに改めてため息をついたり、この国から永遠に失われてしまったであろう冴え冴えとした教養を惜しんだり、ま、思うことはいろいろなのだが、
残念ながら、手放しで礼賛する気分にまでは、どうもなれない。
なぜかというと、ちょっと古い本というのは、読み続けていくうちに、ある種の疲れがたまってくるからである。
これがいけない。なぜこんなに疲れるのか。
何も難しい言い回しのせいばかりではない。
おそらく、作品に重く横たわる「濃厚な」あるいは「過剰な」自意識のためである。
フランスやロシアのものよりはさすがに薄口だけども、それでもぼくにはたいへん濃い。
この「濃厚な」自意識というのは、たとえば「巨人の星」あたりを貫く「おれは、おれは、おれは、おれは…」という心のあり方だと思えば分かりやすいかもしれない。
思えば70年代くらいまでは、時代の空気はこんなだった。
作中の人物は、ただフツウにしていることができず、何をするにも意味を求める。
市井に暮らすフツウの人のはずなのに、全人類の運命を担っているように力んでいる。
なんだかあまりに濃くて、だから疲れてしまう。
疲れてしまうだけではない。
これらの作品で描かれる、人生と真摯に向きあおうという姿勢や、人として意味ある生き方を求め続けようとする態度は、たしかに素晴らしいものなのだけれど、
しかしそうした真っ直ぐな姿勢は、その素晴らしさゆえに、その素晴らしさと同量の危うさをも秘めていると、ぼくには思えてならないのだ。
古い作品が暗いとか重いとかうっとうしいとか、そんなことではない。
「危うさ」という言葉でぼくが言いたいのは、自分の内部に留まるべき私的な感想が、いつしかおとなしい感想という膜を食い破って、ついには人類のすべてを救わなければやまないほどの巨大な妄想にまで肥大するおそれがある、ということだ。
近代文学は、というより近代という時代は、そんな危うさに充ちていた、ような気がする。
これは決して大げさな言い方ではない。
肥大した自我の引き起こすおぞましい「善」の有りさまを、ぼくたちは現にみんな知ってしまったじゃないか。
長くなるので、つづきはあした。
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