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どうして学校には規則が多いの?
どうしてあれしなさい、これしなさいばかりなの?
どうしてわたしたちの自主性を尊重してくれないの?
どうして興味のない授業を聞かなくてはいけないの?
なんてことを思っているみなさん。
今日のはなしは、そういう疑問に対するひとつの答である。
怒らずに読んでほしい。
まず最初にはっきりしておこう。
公教育の目的は、子どもの性能を総合的に引き上げ、以て社会に資する人材を作り上げることである。
そう、国家にとっての教育とは、ひとつの統治行為なのだ。
こんなことを口にすると、前時代的な全体主義かと疑われるかも知れない。 おまえは民主主義を否定するのかと叱られるかもしれない。
でも、国家から見た教育とは、元来そういうものである。
だからそう言ったからといって、ぼくを責めるのはお門違いなのだ。 教育をそういうものにしたのは国家であって、ぼくではない。
今から2500年くらい前、ギリシャにスパルタという都市国家があった。ここでは幼少の頃から厳しい教育を行い、強力な軍事体制を作り上げていたことで、今なおその名を知られている。世に言う「スパルタ教育」である。
スパルタのやり方はなかなかエグいもので、強い軍人を育てるために、ひ弱な男の妻は、夫の子ではなく頑健な男の子どもを生まされたという。そしてその強い子を、幼い頃から兵営で徹底的に鍛えるのだ。あちゃー。
これはたしかに極端ではあるが、国家と教育の関係の一面を分かりやすく示した例だと思う。
教育は強い国を造るためにある。
教育は国家によるサービスである以前に、繰り返して言えば、統治行為なのだ。
あるいは為政者は国民の幸福を心から願っているかも知れない。が、そうであっても、その幸福を実現する方法は「教育によって幸せにする」というよりも、むしろ「教育によって国力を上げ、その結果としての幸福を享受させる」というものだ。
国家が膨大な費用をかけて無償で教育を行い、かつ教育を受けさせることを義務としている理由は、つまりはそういうことだ。
そう考えると、生徒を一定の枠にはめたがる、などという批判は、その批判自体が的はずれであることが分かる。学校は国を強くするための装置なのだから、枠にはまるようにしつけるのは学校の本分そのものと言ってよい。
もちろん教育は一面サービスでもあるから、学校に対するさまざまな要望はあっていいが、しかし管理や規則という枠をなくせという主張は無茶である。木によりて魚を求むってヤツである。パン屋に行って「なぜこの店にはパンが置いてあるんだぁ!」と怒るようなものなのだ。
学校は、国家のために有為な人材を育てる装置である。
これはいいとか悪いとか、気に入るとか気に入らないという問題ではない。国家である以上、これ以外にありようがない事実である。
このことをしっかり自覚して、学校の限界や、学校の偏りをしっかり感じ取るといい。そして学校で得られないことを欲しがって駄々をこねるのではなく、足りない部分は自分で何とかしていこうと腹をくくった方がいい。
付け加えるまでもないことだが、こう言ったからとて、ぼくは学校を否定しているわけではない。 ただ学校の教育に何もかもを求めるのは無理だと言っているだけだ。
そしてこういう美しくもなんともない現実をごまかさずに示すことも、実は大人としての役目のひとつじゃないかなー、なんて思ってもいる。
子どもを夢想の世界に留めて置くのではなく、現実をしっかり見据えた大人に育てることが、ぼくたち大人の務めだろうから。
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