2004-08-27 痛烈な批評

きょうのニュースから。「ロンドンのテート・ブリテン現代美術ギャラリーの掃除夫が、美術作品の一部を構成していたごみ袋を投げ捨ててしまった。掃除夫は、単なるごみだと思ったという。その透明なごみ袋は、ドイツ出身の芸術家の作品の一部だった。袋には、新聞紙やボール紙、他の様々な紙が詰め込まれていた。掃除夫がそのごみ袋を他のごみと一緒に投げ捨てた時、ごみ袋は、酸をまき散らしたナイロンシートの作品と、机の上に置かれた金属彫刻の作品の隣に展示されていた」だって。
 
まったくけしからん話だ。
おっちゃんの失敗はともかく、ゴミと区別がつかないような代物を芸術と称して善良な市民に拝ませていたなんて、まったくもってけしからん。まわりの連中がよってたかってこのおっちゃんの無知を責めたり笑ったりあきれたり侮蔑したりして、果てはクビにしてしまっていたとしたら、ますますもってけしからん。ごみ袋に紙くずを詰めたものは、ふつうはゴミと言うのだ。ゴミを捨てて何が悪い?捨てたおっちゃんよりも、捨てられるようなゴミを作ったり、そんなゴミを展示している方が悪いんじゃないか。
なにしろ芸術というのは、美しくなければいけない。
人間の自然な感情を無理やり振り切るようにして作られた作品は、何らかの表現とは言えても、芸術という名にはふさわしくない。もちろん芸術の分かる人だったら、「現代の芸術は、人間の意識の奥底で抑圧された精神を解放し、ありふれたものの中に潜む豊かなイメージを喚起し、作家から押しつけられる美ではなく、鑑賞者が積極的に関わることによって初めて生まれる新しい美を作り出している」とでもいうのかもしれないが、何を言われても、ぼくにはそれは後からつけた理屈としか思えない。新規性や独自性を追求したいあまりに肝心の美しさを犠牲にしてきた、というのが現代美術の姿じゃないのか。デュシャン以降だれも便器を展示会場に置こうとしないのは、この手の「芸術」から新規性を除いたら、じつは何も残らない、ということの証左なのではないか。ぼくはレディメイドの芸術も、偶然性の芸術も、ただ新機軸を出すための苦肉の策のようにしか思えなくて、とても認める気にはならない。アポロンやミューズや弁天様だって、ごみ袋や便器になんざ、降りたかないんじゃないの?
もしかしてもしかすると、このおっちゃんは、作品の一部と知りながら、ケッこんなモン、なんてカンジで捨ててしまったのかもしれない。もしそうなら、いや、おっちゃんも実に痛烈な批評をしたもんだ。