2004-08-08 国語をめぐる誤解について


国語ができるとはどういうことか。一般的には、漢字をたくさん知っている、語彙が豊富、リズミカルで読みやすい文章が書ける、気の利いた文句を考えつく、イメージを鮮烈に切り取るような適切な言い回しができる、なんてことを思い浮かべることだろう。
ところが、国語という教科をいくら勉強しても、意外というかやっぱりと言うか、こういう力は身に付かないのだ。

なぜなら国語は、表現力を訓練する科目ではなく、主としてテキストを分析的に読むことを学ぶ科目だからだ。線を引いたり鉛筆でぐるぐる囲んだり、前に行ったり後ろに行ったり、縦に読まずに横に読んだり、ばらばらにしたりつないだり、そんなことをしながら文章を読み解いていく。これが国語という教科の姿なのだ。これは、ふつうに言う「読書」というものとは、あまりにかけ離れている。
たとえて言うなら、自動車を運転するのが普通の読書であり、自動車の構造を研究するのが国語である。自動車の構造をいくら研究しても、運転はうまくならないし、ドライブ好きにはならないし、抜け道に詳しくなることもない。
じっさいに、文章を書かせればまるっきりダメなのに国語はできるという生徒がいるし、じつに味わいのあるよい文章を書くのに試験はまるでダメ、という生徒もいる。スポーツはまるっきりダメだが体育は5,とか、歌も楽器の演奏も抜群だが、音楽は1、という事態がほとんど想像できないことを考えると、まったく、不思議な科目である。

そこでぼくたちは、大きな選択を迫られることになる。
この国語という科目と、どのようにつきあっていくのか。
学校の試験で高得点を取るために勉強するのか。
表現する力をつけるために勉強するのか。もしそうなら、その目指す表現とは、伝統的な美しい詩的なことばなのか、意表をついた斬新な表現なのか、論理的に構成された文章なのか。
あるいは、試験ができなくても、文章が上手に書けなくてもよい、楽しく読むことだけを望むのか。
もちろんこれらはお互いに矛盾するものではない。試験もでき、文章も書け、読書もとことん、という答であってもよい。 ただし、そのためには、ただ漠然と「国語」という教科に取り組むのではなく、これとこれとこれを目指す、という明確な意識が必要だってことは知っておいた方がいい。