|
2004-08-07 平等
よく言われることだけれど、日本という国の国際競争力の源は、みんながよく働くところにある。人として同じ価値を持つ、という平等の感覚が染みついているからこそ、新入社員もぺーぺーも平等に働くことに疑問を持たないのだろう。
平等という感覚が育っていない国では、たっくさん給料をもらう人がいて、その人たちがものすごくエバりかつ猛然と働いていて、一方そうでない人たちは、エバられはするが大して働かなくても許される、という具合になっていると思うのよ。つまり、富も権力もエラそーな態度も仕事の量も律儀に働く真面目さも、一部の人にどっさりと偏っていて、そうでない人は、上流・中流の人たちとはまったく別の次元で、まあビンボーなりにのらくら生きているっていうのが、世界の多数のあり方じゃないだろうか。
ところが日本では、そんな極端な偏りがなく、みんながみんなそれなりの使命感を持って、ちゃんと真面目に働いている。これはすごいことだ。真面目労働率の国際比較なんてものがあったら、日本はぶっちぎりのトップを行くだろう。平等意識が浸透した成果は、他人を差別しない、というだけでなく、こういうところにもあらわれているのだ。
しかし、物事には、よい面もあれば悪い面もある。みんながみんな等し並みの意識を持っているということが、この国に規律や安全やいくらかの豊かさを生み出しているのは間違いないとしても、それとともに、目立たないところに深々と突き刺さったような、多くの不幸を生んでいるような気がする。
ぼくが言いたいのは、誰もが/すべてのことに/一所懸命にならなくてはいけない、という強迫観念にも似た気持ちが、下は中学生から、上は定年間際のおじさんまで、広く行き渡っていることだ。
誰もが/すべてのことに/一所懸命になるのが当たり前、という考え方は、歴史的にも地理的にも、まったく当たり前ではない。おそらく人間というものは、その大多数は、大して勤勉に作られていない。よく働きよく稼ぐことが、大人としてもっとも大切な道徳だとされているのが今の世の中だけど、この状態はむしろ例外的なものなのだ。
そもそもみんながみんな、そんな風に生きていくようには設計されていないのに、市場原理だの資本の論理だのを無理やり当てはめようとするから、いろいろな問題が起こるのかもしれない。社会に適応していない人が多い、のではなく、多くの人の自然の姿に、社会のあり方が適応していない、のではないのだろうか。
|