2004-06-17 言葉で考える

「人は、言葉でものを考えるものである。言葉で考える以上、その肝心の言葉が貧しくてはいけない。言葉が貧しければ、そこから生まれる考えそのものも、貧弱なものにならざるを得ない」ってな言い方は、しょっちゅう目にし耳にするものである。言ってみれば常識の範疇に入るだろう。
しかし、そういうことを口にするみなさんに聞いてみたいのだが、本当に人は、「いつも」言葉で考えているものなんだろうか。
ぼくが言葉を使って考えている、ということを自覚したのはものすごく最近で、せいぜい数ヶ月前のことである。ある日散歩をしながら考え事をしていて、そのときにわかに「無言のうちに独り言を言っている自分」に気がついたのだ。「たしかに授業時間を変更すると支障が出るかもしれないが」なんてセリフを心の中でしゃべっているのに気がついて、あ、これかあ、と思ったのだ。
ぼくはそれまで、断じて言葉などでは考えて来なかった。
考えは、一瞬の印象として訪れるものであって、それを捉え、再生するために言葉を使うことはあっても、言葉を積み重ねることによって何事かを生み出す、という経験は、それまでしたことがなかった。その感じはちょうど、音楽が先にあり、それをつなぎ止め、記録し、再現するために音符を使うのに似ているかもしれない。
ある音楽を想起するのに、いったいどれほどの時間がかかるものだろう。1時間にわたる交響曲を頭に浮かべるのに、1時間はかからないだろう。その音楽の印象を想起するに必要な時間は、ほんの一瞬である。音楽でなくてもよい。映画でも、小説でも、想起するのに必要なのは、ほんの一瞬である。そのとき、ぼくは考えていない、のか。
昨日の晩、田川建三氏の本を読んでいて非常に教えられた。その内容を述べるには相応の時間がかかるが、それを想起するのは一瞬で足りる。彼の考えを考え起こすのに必要なのは、ほんの一瞬である。ここにはまったく言葉などは入り込んでいない。ぼくの中に思想が入り込むには言葉を介する必要があるし、ぼくが考えを誰かに伝えようとすれば、そこにも言葉は必要だ。しかし、考えることそのものには、多くの場合、言葉はいらないのではないか。ものを考えたり、ものが分かる、ということは、むしろ直覚であって、論理の積み重ねではないように思うのだ。
だってさ、何かを聞かれて、「あ、それはね」って答えるとき、聞かれた瞬間に語るべき全論理が言葉として浮かんでいるわけじゃないでしょ。そうではなく「その問いなら分かる」っていう感じだけが先にあるはずだ。この「あ、分かる」という感じは、言葉の積み重ねとはまったく別に生まれるものなのだから、いわゆる「ことばで考える」ものではない。じゃ、なぜ、的確に「この問いならば分かる」と判断できるのか。それは、判断には、実際には、言葉など必要ない、からじゃないのか。